JIA Bulletin 2011年1月号/F O R U M 覗いて見ました「他人の流儀」
芦原太郎氏に
「建築家と継承について」を聞く
芦原太郎氏 インタビュー風景
芦原太郎氏  インタビュー風景
聞き手:Bulletin編集委員

 
JIA会長として多忙な日々をお過ごしですが、今回は会長としてではなく建築家・芦原太郎氏として様々なことを伺いました。


はじめに、どういうきっかけで建築家をめざすこととなったのでしょうか。

 

  すでにおわかりだと思いますが、まず父が建築家でした。それと、子供の頃に自宅の増改築を十何回もやったのですが、住みながら工事をしているわけです。家というものは買ってくるものではなくて、大工さんなどの専門家にお願いして造ってもらっていて、それを目の当たりにして「すごいなぁ」と子供心に思ったのです。そして父親が家に帰ってくると、つらい話ではなく楽しく前向きな仕事の話をするのです。休みの日には、駒沢公園のオリンピック体育館の現場に連れて行ってもらい、その場で働いている父親の姿を見たり、要は建築家という職業を、前向きな話に受け止めるようになったわけです。皆で造り上げていって本物ができる迫力や楽しさを知るという作戦に乗ったのだと思います。(笑)
 大学は東京芸大に進学したのですが、とにかく物理や数学などの勉強よりも設計させてもらえるのがとても楽しかったです。大学では吉村順三先生がいらっしゃって「建築というのは、住宅における生活をするということが基本なんだよ。君の引く一本の線が家族の生活を左右するんだから、責任を持って真剣に取り組むように。」と教わったのです。大学院は東大に行ったのですが、ホワイト&グレーだとかA+Uなどで、現代的なスタイルをどう創るかという設計をしていました。今までは楽しい生活をどう考えるなど、中身を考えていたので、その違いは大きいと感じました。
 その後、ヨーロッパに1年間の放浪の旅に出たのです。今と違って、気楽にとはいかないので、かなり覚悟を決めて行きました。北欧からアアルトやコルビジェなど近代建築や歴史的な建築物を見ながら、だんだん南へ入っていくのですが、ローマ辺りからナポリ南部の集落へ行ったり、ギリシャのエーゲ海の島やモロッコへ行くにつれ、だんだんニコニコしてくるのです。有名建築家の建物や歴史的な建物以上に、地中海の集落では町が生きていて、皆が楽しく集まる広場があり、海が青々として、島があり、白い集落がある。こちらの方が楽しいと感じたのです。

 

 

仕事を始めて、そして独立された時期についてお話し頂けないでしょうか。

 

 卒業後、父親の事務所に入りプロになる為の修業時代となります。階段やトイレの設計に5年、一人前には10年かかるぞ、という事務所でした。そうして実務を習い、担当もさせてもらい8年を過ごしたのです。これである程度はやれると思い、独立をしました。作戦もあてもなく、ただ自分でやりたいとの思いでした。父親の事務所は、父親の名前で責任を持って仕事をしていて、そこにクライアントが頼みにくる。僕が違ったことをしたいと思っても、それを侵すわけにはいかないわけです。自分のしたいことに対して依頼をしてくれるクライアントに、自分で責任を持って仕事をした方がいいと思い、独立をしたのです。
 独立後は暇ですし、法人登記などを自分でしましたが、世の中の理不尽なことも含め、社会システムの勉強になりました。独立当初は仕事もなく1人で始めましたが、自由で幸せであると共に、経済的には不安でした。それでも独立したとなると、いろいろな人から一人前の大人として扱われ始めたのです。展覧会のお誘いや所員時代のクライアントからの仕事紹介、大学からの講師の依頼など、声が掛かったのです。“独立した” ということが大事なんだと、そこで初めてわかったのです。
 個人の住宅の設計をしている時に、かつての同級生にコンクリート打放しでないと雑誌に掲載されないよと指摘されました。ところが年配のクライアントは、汚れが気になるとかコンクリートはきつい印象などと心配していて、いいタイルがないかと相談され、困ったなぁと思いました。独立当初、多くの人は雑誌に載ったり、名を上げたいと思うのでしょうが、その時にスイッチが入ってしまったのです。「世の中に名が出るとか出ないとかはどうでもいい。クライアントがいい家を造りたいと一生懸命お金を出しているのだから、しっかり打合せをして、納得させてあげるのが自分の役割だ。」私はそれが大事だと思うのです。逆もあると思うのですが、そうはしなかったのです。

 

 

ご自身の設計手法で「ワークショップ」がキーワードになると思いますが、改めてワークショップの意義、必要性をお聞かせ頂けますか。

 

 独立当初は住宅が多かったのですが、徐々に公共やディベロッパーの仕事が増えてきました。ただ、公共やディベロッパーの仕事をすると、不思議な気がしたのです。住宅などは、クライアントがいて設計者がいて、相談して良い家を造ろうとするわけですが、公共の仕事などは行政の担当官などが利用する市民の声を聞かずに決めていて、それで良いのかと。そして市長などとの話で、最後はやっぱり市民参加だろうとなったのです。そこで「私は学生の時に、ローレンス・ハルプリンのワークショップを勉強したのですが、民主主義に基づく市民参加のワークショップ形式で公園などを作っているのです。」と言ったところ、試しにやってみようと特命で仕事を受けました。こうして白石第二小学校のときに北山恒氏と一緒に設計をして、これが初めて、市民の為の市民と共に建築を造る建築家になれたと思う瞬間でした。最近は、ワークショップで公共建築を造るのは当たり前ですが、本格的に始めたのは僕らが初めてではないでしょうか。

 

「白石市立白石第二小学校」ワークショップ風景
「白石市立白石第二小学校」ワークショップ風景
 
「白石市立白石第二小学校」外観
「白石市立白石第二小学校」外観

 

 

あまり形態や造形を前面に建築を語ることは少なかったと思われますが、デザインについてお聞かせ頂けないでしょうか。

 

 お話しするのはなかなか難しいですね。それは自分のテイストということですが、良い素材でシンプルな落ち着きのある空間をつくるということでしょうか。奇をてらうのではなくて、永く安心でいられる心地よい空間、極めてオーソドックスで上質な空間を求めています。うちの事務所内での設計は、先生が素晴らしいスケッチをして、それを所員が必死になって実現化するという巨匠スタイルではありません。所員の皆がどんどん意見を出して議論する、それの連続です。これもワークショップと言えますね。良いものは良いという、最適解を出したいわけです。これが私達のデザインや設計の進め方です。

 

「公立刈田綜合病院」外観(写真:堀内広治) 
「公立刈田綜合病院」外観(写真:堀内広治) 
 
「公立刈田綜合病院」内観(写真:堀内広治)
「公立刈田綜合病院」内観(写真:堀内広治)

 

 

JIA等の建築団体のみならず、建築家、設計事務所としての社会的に意義のある存続、そしてその為の継承について、A-ARCHITECTS.NETの取組みなどを交えてお聞かせ頂けないでしょうか。

 

 設計事務所についてですが、始める時はいろいろ良く考えているのですが、どう終わるのか、ということについては、皆さんあまり考えていない。AIAでは、そういうレクチャーもあるのですが。建築家は責任を持って設計はしているが、廃業などした場合、その後に残されたクライアントや社会の側はどうしたら良いのか、という話です。ゼネコンや組織事務所などは大丈夫でしょうが、一般の事務所はどうなの?という社会の目があると思うのです。事務所の継承なり継続なり責任ですよね、それを考えたのです。そうしてA-ARCHITECTS.NETを作りました。父親の事務所とニューヨークの従兄の事務所と私の事務所でコアメンバーをつくり、海外で仕事をした仲間の事務所にはインターナショナルメンバーで参加してもらい、事務所のOBなどにはネットワークメンバーとなってもらい、ネットワークを組んでいます。昔の父親の事務所で設計をした建物のメンテナンスを、以前の所員のネットワークメンバーに行ってもらいお世話するということもできます。また、アーカイブスで資料を残しておき、ネットワークで責任も未来へ継承するということを始めたのです。学生に向けたトラベルスカラシップも創設し、若いメンバーとしてネットワークにも参加してもらい、またネットワークメンバーには専用ウェブページがあり、仕事やコンペなどの情報も共有や協働もできるのです。スター建築家や組織事務所だけではなく、一般の設計事務所も力を合わせていけば、世界にも広がるのです。
 今JIAでは、スターアーキテクト、クロスボーダーアーキテクト、コミュニティーアーキテクト、という建築家のあり方を考えています。有名な建築家だけをスターと言っているのではなく、責任を持ってきちんと仕事をしている人のことを意味するので、JIA会員は皆スターです。表彰なども活発に取り組もうとしています。
 クロスボーダーアーキテクトは、国境を越えて自由に活動する建築家のことですが、組織事務所はすでに戦略的に海外進出しています。有名なスーパースターは、コンペなどで海外でも活躍しています。その他の建築家でも、日本でまともに仕事をしている建築家は、アジアでもの凄く優秀なんですよ。たくさんのマーケットがあり、スーパースターや組織事務所でなくても、しっかりと仕事をする建築家は求められているのです。しかし現状はなかなかクロスボーダーできていないので、JIAとしても情報交換をしたり、資格の問題をクリアするなど、いろいろとサポートを考えています。
 地域のまちづくりや集団規定の許可制になる場合のビジョン作りには、日本版CABE(まちづくり委員)や専門家となるコミュニティアーキテクトが必要です。全国各地に必要ですから、大きな需要です。
 この3つは、実は同じ人なんです。地域で活躍し、海外に進出、しっかり仕事をし、スターとなる。どれかだけでなく、それぞれで活躍できるのです。それぞれの方向にしっかりとJIAメンバーが頑張っていけば、未来は明るい筈です。建築家は、前向きになることが大事です。

 

 

 インタビュー直前、ご自身で運転をしている車から降りて、颯爽とした身のこなしでこちらに向かってこられました。とにかく明るく前向きで饒舌な芦原会長でした。会長である前に、一人の建築家としても精力的に活躍されて、かつ将来における継承についても真摯に取り組まれている姿勢に刺激を受けました。JIAに留まらず、建築家においても“ネットワーク”がキーワードであると再認識しました。「会長として一人の建築家として、それぞれで頑張っていますが、実は繋がっていると思っているのです。」と仰っていました。それぞれの役割・立場を踏襲しながら、実はクロスオーバーしている建築家芦原太郎氏を改めて拝察させて頂くことができました。

〈聞き手:池元真克・近藤弘文・湯浅剛・三上紀子

 

■芦原太郎 氏(JIA会長) プロフィール
1950年
1974年
1976年
1977-85年
1985年
2000-02年
2001年
2010-現在
東京都出身
東京芸術大学美術学部建築科卒業
東京大学大学院建築学修士課程修了
芦原建築設計研究所勤務
芦原太郎建築事務所設立
社団法人日本建築家協会副会長
芦原建築設計研究所代表を兼務
社団法人日本建築家協会会長

●主な受賞
「笠間日動美術館」新日本建築家協会新人賞(1993) 
「白石市立白石第二小学校」社団法人文教施設協会賞(1997)
建築業協会賞(1997)、日本建築学会作品選奨(1998)  
「幕張SH-1」グッドデザイン賞(2003)  
「公立刈田綜合病院」グッドデザイン賞(2003)、医療福祉建築賞(2004)
日本建築学会作品選奨(2004)、日本建築家協会賞(2006)
公共建築賞優秀賞(2006)


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