JIA Bulletin 2011年7月号/F O R U M 覗いて見ました「他人の流儀」
茶谷亜矢さんに聞く
「折り紙建築を継ぐ」 
芦原太郎氏 インタビュー風景
茶谷亜矢さん  インタビュー風景
聞き手:Bulletin編集委員

お父様の茶谷先生が折り紙建築を始められたきっかけと、いつ頃このオリガミックアーキテクチャーが設立されたのですか。

 

 父が始めたきっかけについては、いろいろな所に様々書いているようです。現在その中の一つを「折り紙建築の誕生エピソード」としてホームページに掲載しています。当時、毎年年賀状の絵を子供に描かせていたところ、ある時子供達に反発され、仕方なく自分で年賀状を創作しようと考えたのが、紙を二つ折りにして見開きで広げると顔が出てくる仕掛けのカードでした。500 部ほど手で作り知人に送ったところ、予想以上に喜ばれ凄くうけたので「これは行ける!」と第二弾、第三弾を作り始めました。最初は顔だけの様でしたが、抽象的な立体(正十六面体とか)を次々と生み出したり、建築や自然遺産(地形)等も作るようになりました。1983年頃最初の展覧会を松屋銀座で開催された事をきっかけに、本やグリーティングカードやワークショップなど、様々な問い合わせが寄せられるようになり、作品の種類も増えていきました。
 今の会社は、父が大学退官後フラフラとして落ち着かないように見えたので肩書きがあればいいなと思い、私も時間があったからなのですが、1999年に折り紙建築をもじった「オリガミックアーキテクチャー」を設立しました。宣伝しなくても展覧会や講演会の依頼がちらほらとあったのはたいしたものですね。でも、結局生涯商売人でありえない父一人で話が発展せず終わってしまうことも多く、もったいないと思った私がしゃしゃり出て話をまとめようと思ったのです。

 

写真

住宅街に突然現れる緑に覆われた建物。
外部の様子からは想像も出来ない、三角形のトップライトから光が注ぎ込む地下の事務所でインタビューをさせていただきました。
屋上の立派な木は桜で、植えたのではなく、鳥が運んできたのか自生しています。

[C邸]1986 年
設計:東京工業大学茶谷研究室

 

 

亜矢さんが折り紙建築を始められたのは、いつ頃からですか。

 

 大学で建築を学びましたが父とは違う分野に進み、この折り紙建築には全く係わっていませんでした。小さい頃から建築の先生や学生さんが自宅によく出入りされていましたが、子供心にも「マニアックな世界」だと思い、そっけない態度をとっていました。 
 会社設立をきっかけにようやく係わるようになりましたが、当初はマネージャーの真似事をしていました。父の作品を残すことが目的でしたので、作品製作の意志はありませんでした。しかし、退官後の父には作品作りを手伝ってくれる奇特な学生さんがいませんでしたので、講演会はともかく展覧会の時が困りました。いざ展示しようと作品を見ると、壊れたり切れたりしているものが多く、人目に出せない有様で途方に暮れました。しかし補修をしなくてはならないものですから、結果として、当時一番自由に時間が使えた私が作る羽目になりました。2000年にはニューヨーク展を始め4つの展示会があり、それこそ私は馬車馬のように、ひたすらに、そして、しゃかりきに作品を作っていました。

 

 

東京ミッドタウン

東京ミッドタウン

 

全部お一人で考えて作られたのですか。

 

 父はそうです。私は父の作品の補修作業から実際に手を動かし始めました。でも修復にも限界があり、一から起こさないといけなくなりました。時々、作品が旅に出て留守なときがあるんです。その時は、父の作った型図からトレースを起こして行きました。この最初の頃、短時間で色々な作品を作ったので、その時に技術的ノウハウを覚えました。作品のリストもデータ化して、また、発表されていない作品の発掘もしました。そのおかげでどの様な作品があるかがイメージとしてインプットされ、今それが私の創作活動を大きく支えています。制作前にイメージとして似ていそうな例を見つけるとほっとします。これはあれをイメージして、あの手法を使ってなど、どんどん自分の中で組み立てられるようになっていきました。そうしているうちに、製作途中で投げ出された作品などを、自分のイメージデータの中から見つけた手法で完成させていきました。その時の作品は父との共作として発表しています。
 作品は本で発表されているもの以外は知られてなくて、沢山眠っているのもあり、いまだに見つかり続けています。未完も多くあり、これらは一体どの様にすればよいかと悩みますが、いずれ時間を見て完成させようと思っています。父本人が亡くなって3年になりますのに、新作発表と不思議な事が起きています。父の作品が私の師として、遺産として残っているので、いなくても父の気配を感じて続けられる気がするのかもしれませんね。

 

 

製作する上での難しさは何処でしょうか。

 

 折り紙建築で建物を表現する事には正直無理があります。詳細を忠実に再現する必要はなく幾通りの表現があると思いますが、ディフォルメするときのバランスが非常に難しいです。自分がやり始めて気がついたのですが、父の作品は無駄がなく、力が上手く流れていてバランス良くできています。部分の細さは自分の技量によって幾らでも細く切ることは可能ですが、折っている時にその部分が細すぎて折れたり切れたりしてしまいます。そこで、もう0.5mm太くしないといけない等としていると、だんだんバランスがズレていきます。ある部分のデザインをこうしたいとすると、全体のバランスが上手くいかない、それでもう一度作る。出来上がるまでこれの繰り返しです。折り紙建築は非常にシンプルです。紙で作ろうとするとシンプルにならざるを得ない。逆に素晴らしいデザインの建物だと困ってしまいます。そぎ落とす所がありません。折り紙建築はずるいところもあり、複雑な物を簡単に表現したり、本当は違うよねと指摘されても、折る関係上ここはつながってなくては出来ない、などとの理由で実際と違うところがあったりします。でもシンプルすぎると、そのつなげる部分が邪魔になり、折り紙建築で表現すると本物の良さを壊してしまいます。何か付け足せば出来ることかも知れませんが、一枚で作ることがモットーなのでそれでは本来ではありません。それとは別に日本の建物は軒が出ているので、その部分の表現が非常に難しいです。カード化されているのは、石谷家住宅(鳥取県、国指定重要文化財)と京都迎賓館の二つ位でしょうか。

 

 

京都迎賓館(茶谷正洋・亜矢:合作)

京都迎賓館(茶谷正洋・亜矢:合作)

 

ワークショップをされていますが、どの様に進められるのですか。

 

 折り紙建築のワークショップは、父が大学の研究室のスタッフの方々と古くからしてました。私自身は父に習ったことも授業も受けたことがありませんでしたが、いつも父はニヤニヤと「キミのやりたいように」と言うばかりで、何も教えてくれませんでしたので、自分でどの様に教えるかを考えさせられました。父の研究室がとても自由な所だという意味がよく分かりました。(笑)
 さて具体的には、まずすでに切り折り線が入ったカードを用意して、折る練習から入ります。これが簡単そうに見えて、一見ただの白いケント紙ですから、印刷がないのでよく見ないと線が分かりにくいのです。私は折る練習ではなく、考える練習じゃないかとさえ思っています。そして一通り練習した後作品の型図をケント紙に写してもらうことから始めます。その様にして折り紙建築を作ってきましたし、物が出来上がる過程というのは自分の手で出来るというのが分かっていないと片手落ちの感じがします。コピー機を使ったり誰かが何処かでしてくれているとなると、何か抜けている感じになり作る楽しみが半減します。作りながら、ここは上手くできないなどを、繰り返ししていくと出来るようになります。それでやり遂げて制作し終えたことが喜びになり、その人(子)にとっては財産になると思います。
 折り紙建築は何かとは父はハッキリと言いませんでしたので、こちらから読み取るしかありませんが、広くこの楽しいことを教えて、自分も一緒に楽しもうと考えていました。自分のことを「家元」と言っておきながら弟子とも言わず、替わりに「愛好家」と言っていました。以前は一般の方が作った作品がよく送られてきました。中にはここまで出来ましたと、途中の作品もあったりしました。しかし父はその事に対して一度も返事をしたことはなく受け取るだけでした。そこが「愛好家」と父が呼ぶスタンスだったのかもしれません。返事をすると教える立場となり、そこで師弟の関係ができてしまいます。習いたい場合はワークショップに参加するしかありませんが、そこでも先生( 父)は、ただぐるぐる廻っていたり、コーヒーを飲みにエスケープしたりして教えてくれませんでしたが。(笑)
私とは親子漫才で楽しいワークショップの雰囲気だったと思います。

 

 

今はこの折り紙建築を継がれていますが、そこにはどの様 な思いがあるのですか。

 

 「最初その気がなかったのになんで継ぐ気になったの?」と聞かれたら、一番深いところでは「父の望まない方向に物事が進んでいくのを避けるため」のような気がします。表現というのは受け取り手によりいろいろ取られることがあり、それはやむを得えないと思います。しかし「番人」がいれば「面倒臭いけどあそこを突破しないといけない」と思うことで、いろいろブレーキが掛かることがあると思います。作品を作り続けることで「番人」であることを一生懸命アピールしている、ということでしょうか。
 大学生の頃に後継者になるかと聞かれたことがありました。当時私は折り紙建築を世襲するに値するものと捉えておらず、好きなことをしてきた親の後を継ぐ義務があるのか、と思ってた時期も実はありました。今は敢えて「継ぎました」と言っています。一番皆が納得する便利な言葉だと思いますし、それは父の子供しか使えない貴重な「特権」だとも思っているからです。もちろん逆プレッシャーですが。

 

 

川崎市市民ミュージアム

川崎市市民ミュージアム

 

 

最後に折り紙建築の「愛好家」へ一言お聞かせ下さい。

 

 手仕事の趣味は数多くあれど、誰もが楽しめるよう特許を取ることもなく型図を公開してきたのが、茶谷正洋の素敵さだと思っています。だからこそ、こんなにも愛好家が増え、また、私が続けて行くことで父の残したイカシタ空間遊びを広めて、沢山の子供たちはじめみんなの笑顔を見ることが出来たら嬉しいなと思います。父は非常にシンプルなものが好きでしたし、私も可能な限りそうでありたいと思っています。ただ、「みんなに楽しんでもらいたい」というのが一番根底にありますので、「創始家元」を尊重して頂き、そこを理解して頂ければ何をやってもよろしい、という事ではないかと思います。
「皆様(節度を持って)自由にお考えください」ということです。
私は一生をかけて答えを見つけていきたいと思います。
これからも宜しくお願いします。

 

〈聞き手:市村宏文・湯浅剛・高橋隆博

 

■茶谷亜矢(ちゃたに あや)さんプロフィール

○ 神奈川大学工学部建築学科 卒業
  同大学院建築学専攻 博士前期課程修了
○ 1999年、茶谷正洋と共に創設した「有限会社オリガミックアーキテクチャー」に参画、

 現在同社代表取締役
○ 創始家元・茶谷流「折り紙建築」を継ぐため茶谷に復氏
  自称:折り紙建築伝道師
○ 一級建築士、木造建築士、インテリアプランナー、宅建主任者、
  福祉住環境コーディネーター、古民家鑑定士
○ 神奈川県在住、二児の母


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