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建築ガイド
建築保存物語
建築保存物語(20)
那覇市民会館(1967)と 聖クララ教会(1958)-1-

写真と文 兼松紘一郎

沖縄の風土と共に

 那覇市民会館を初めて訪れたのは何時だっただろうか。25年ほど前からほぼ毎年訪沖し、2002年にJIA(日本建築家協会)九州支部から独立して沖縄支部になったことを記念した全国大会に参加、基地内の見学をしたことは未だに記憶に新しい。更にその2,3年後から数年に渡って母校明大での文化人類学の院生を対象とした渡邊欣雄首都大学東京教授(当時・現國學院大學教授)の沖縄文化に関する講座に招かれて参加。その年度の講義が終わると、教授や院生たちと共に沖縄に飛び、一度宮古にも行ったが、隈無く沖縄本島巡りをしたものだ。その折市民会館を訪ねたことは覚えている。

 しかし当初は深い庇・雨端(アマハジ)はともかく、悪霊を遮るとされる屏風(ヒンプン・ここでは石塀)を外部とエントランスホールに設置したその姿を見て、沖縄の民家を範とした風土を意匠として取り込むその姿勢に違和感を覚えた。だが渡邊教授の講義が進み、中国から伝来された風水や、ニライカナイ、御嶽、亀甲墓などの独自の沖縄文化を学び取るうちに、設計者の沖縄への熱い想いとそれを取りまとめる力量に心打たれることになる。同時に2002年に行ったJAZZのライブハウス寓話での演奏にぞっこん、JAZZ・MENとも知己となる。JAZZも文化、沖縄にはまったのだ。

 那覇市民会館を設計したのは、コンペで取った金城俊光と金城信吉である。お二人は早世されたが、沖縄の建築家根路銘安史が、125選に選定したDOCOMOMOからの『存続要望書』を「守禮之邦への願い」と題して起稿し、僕はDOCOMOMOの名誉会員として取りまとめ、2013年2月、根路銘と共に翁長雄志那覇市長に提出した。新市民会館建設が決まりその存続が懸念されるからだ。この要望書はこう結ぶ。「どうでいん、ゆたさるぐとう うにげーさびら(どうかよろしくお願いします)」。

 翁長市長は県知事となったが、屋良朝苗初代知事が疲弊した沖縄の、子供達のために`沖縄子供を守る会`の人たちと全国行脚をして資金を集めて建てた「沖縄少年会館(設計宮里栄一)」(後に市に移管されて久茂地公民館となった)取り壊し駐車場にした。さて何かに転用する論議がなされている那覇市民会館は!

 戦後の沖縄建築を考える時に全土が焼土と化した沖縄戦のことを考えざるを得ない。「カクテルパーティ」で芥川賞を得た大城立裕の`普天間へ`(新潮社刊)に収録されている短編「夏草」の、自決のための手榴弾を持って逃避行をする夫婦の生々しい姿を一読すれば、小説とはいえ戦後の沖縄を考える時に、故郷を想う沖縄の建築家が何を求めたか、何を願ってつくったのか、その全てを僕たちは感じ取ることができる。(次号に続く)

那覇市民会館1 兼松撮影
那覇市民会館1
那覇市民会館2 兼松撮影
那覇市民会館2
那覇市民会館大ホール
那覇市民会館大ホール
那覇市民会館2階通路
那覇市民会館2階通路
那覇市民会館植栽
那覇市民会館植栽
那覇市民会館エントランスホール屏風
那覇市民会館エントランスホール屏風
塀と庇
塀と庇

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