JIA Bulletin 2004年6月号/海外リポート | ||||||||||
モスクワ建築事情 イデオロギーと建築 |
||||||||||
渡辺 勝道 | ||||||||||
ここ数年間でモスクワは目に見えて変化している。日本と違って10年ぶりに訪れても、同じ街並と同じ風景があたりまえのヨーロッパの街のなかにおいても、最も変化に乏しかった以前のモスクワからは劇的ともいえる変化である。 統計の正確性の云々はあるが、GDPの成長率は年率にして5%前後もあるらしい。市民は相変らず日常生活の困難さを話題に延々とお茶をするが、以前ほどの深刻さを窺うことはできない。 国際線が到着するシェレメチェヴォ第2空港から市内へ向かう街道沿いには大型家具店、ホームセンターなどが建ち並び、ここに自家用車で乗り付け高級家具を購入することがある種のファッションとなってきている現状をみれば、モスクワの住宅事情も改善されているかのようにみえる。 ほんの数年前まで市内では、一つのアパートをいくつかの家族でシェアすることが一般的であって、高級家具を買う必要も余裕もなかった、ということが実情であった。 現実に、市内の地下鉄の駅からは郊外に続々と建設されつつある住宅団地へロシア初のモノレール路線も建設されていたり、その他にも地下鉄の路線が延伸されたり、新路線が建設中であったりとまさに、建設ラッシュに湧いている。 この建設ラッシュの発端となったのが、1997年のモスクワ建都850年祭であった。就任後も石油マフィアなどと呼ばれ、あまり人気のでなかったルシコフ市長の肝煎りで始められた行事であったが、その目玉となったのが市内の美化といくつかの建設プロジェクトであった。
再建された大聖堂は鉄筋コンクリート造で3年あまりで完成した。これはロシアの建設事情を考えれば異常なスピードでモスクワっ子曰く、あっという間にできてしまった、という感がある。 とはいえ、この大聖堂再建にも様々な伏線があった。1993年のソビエト崩壊後にロシアにおこった大きな潮流は、ソビエト時代に失ったものの復権であり、建築界に関しては歴史遺産としての教会と聖堂の修復と再建であった。実際にロシア全土でこれらの修復が優先的に行われることとなった。 モスクワにおいてもこれらの修復と再建が始ったが、モスクワには教会や聖堂が有名無名を問わずその絶対数があまりにも多い。修復ばかりを優先するわけにはいかない市当局が大聖堂の再建をくぎりに修復優先の政策を転換する、といった思惑もあったといわれている。 そして、このような潮流に相反する形で、割りを食ってしまったのが「ロシア・アバンギャルド」の建築群である、革命後の1920年代から1930年代に建設され、日本をはじめとして世界中に構成主義の建築を筆頭に一大ムーブメントを巻き起こしたことは周知の通りであるが、多くの建築物が大聖堂と同様に教会や聖堂を破壊した跡地に建築されたことなどの理由もあって、最近はロシア人のなかに負の遺産として受け止める向きも少なからずあるようである。 ソビエト崩壊前後の一時期にちょっとした回帰ブームがあって多少の修復が行われはしたが、聖堂の修復とは桁違いの場当たり的な修理程度のもので、この動きも長くは継続しなかった。教科書に載るほどの建築物の多くがまさに危機的状況にあるといえる。
写真-3はロシアの建築家イリア・ゴロゾフのツィーエフ労働者クラブである。構成主義の代表作ともいえる作品でシリンダーの階段室が特徴的。この作品の後ヨーロッパにおいてシリンダー状の階段室や建築物の角にシリンダーをデザインとして取り入れることが流行した。また日本においても1930年代に同様のデザインが数多くなされている。 この建物もやはり修復はされていないが、比較的状況は良い。しかし老朽化は否めない。
このような数少ない事例ではあるが、ロシアにおいてはいつの時代においても建築と建築家がイデオロギーに翻弄されてきたといえる。それは善くも悪しくも建築家が政治に関わらざるを得ない立場にあったということである。しかし残念ながらロシアにおいては、建築が政治に利用されてしまったという印象は拭いきれない。少な くとも、アバンギャルドの建築家たちの作品が負の遺産などと呼ばれる状況は悲しいものである。
|
||||||||||
〈アルフィ建築デザイン〉
|
Copyright (C)The Japan Institute of Architects Kanto-Koshinetsu Chapter. All rights reserved. |