昨年から西アフリカ・ギニア湾岸国に度々出掛ける機会があった。20年以上前に産油国リビア計画省のインハウス建築家として5年位係わったのが初めてのアフリカで、この間に日本で報道されるアフリカのニュースは殆どが不幸な事柄を伝えるものだった。そして今、フロンティアがここまできたという感じで都市の風景や生活が大変貌している街を歩きながらアフリカの今を考えてみた。
伝統的な移動販売人
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■ギニア湾のほとりで ―複雑な民族対立構造と負の遺産
かつて、アフリカを「暗黒大陸」と呼ばれた時代があったことを知る人は今やどれほどいるだろうか。人類発祥の地で強大な王国が栄えたアフリカだが、15世紀から19世紀にかけては歴史的負の遺産を背負わされた地域で、ヨーロッパ列国の進出以来惨めな歴史をたどってきた。アフリカ諸国は、列強による支配から脱却し独立を達成したものの旧宗主国との特殊な関係に今なお苦しみ当時のつめ跡をいまだに色濃くのこし、その後も原油や希少金属といった資源需要による経済成長にのる国もその恩恵が一部にしか行き渡らない不平や貧富の格差等が紛争になっている。アフリカの民族対立構造、宗教問題、政治変動は複雑な歴史的・政治的背景によるもので、権力者の腐敗、不安定な政情・政権が続き内戦や戦闘状態の国もありなかなか民生は向上してこなかった。
アフリカを語る上で避けられない歴史はなんといっても奴隷貿易で、アフリカ大陸沿岸の特に西アフリカの港湾都市は白人優位社会の弱者としての犠牲を強いられ、ギニア沿岸の国々は内陸部からの産物積み出し港として西から胡椒海岸(グレイコースト)、象牙海岸(アイボリーコースト)、黄金海岸(ゴールドコ―スト)、奴隷海岸(スレイブコースト)と呼ばれていた。その後、産業革命によって原料と製品の供給地となりフランスやイギリスの植民地経営の戦略地となっていく。私の住んでいたリビアも地中海の南岸にあって古代ギリシャ、ローマの植民地として金や象牙と奴隷が運ばれた。その南に広がるサハラ砂漠といわれる南縁のサヘル地域(半乾燥地帯の砂漠の海岸、セネガル、モーリタニア、ブルキナファソ、マリ、ニジェール、ナイジェリア、チャド)は、かつてサハラ交易の拠点として大陸諸文明との窓口となっていた先進地域の時代もあった。
フランス資本のスーパーマーケット
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■アフリカの都市の今 ―次世代の都市の価値を
丹下健三氏によるナイジェリアやアルジェリア、黒川紀章氏のタンザニアやリビアなどは日本の建築家が計画にかかわった国として知られている。いずれもアフリカが新時代に向かって国づくりをはじめた時だった。しかし、私達にとって建築や都市の視点でアフリカを想像できる情報はあまりなく、地中海沿岸の北アフリカはイメージできてもサハラ以南のサブサハラは限定された資料からはなかなか理解できない。Amazing Houseとしての民家は様々に紹介されているが、多くの研究は文化人類学や歴史・地域問題がほとんどで建築や都市、居住空間といった分野の調査が少ないことが挙げられる。東大・原研究室の都市や住まいについての継続的集落調査の成果「住居集合論―(5)
西アフリカ地域集落の構造的考察」(SD別冊12・1979)は貴重だった。近年は、日本人が取り組んでいる特長的な研究やプロジェクトも紹介されている。アフリカの都市は基本的には旧宗主国の考え方や植民地経営の違いで今の都市骨格が形成されている。しかし、建物が都市の歴史を語り都市の歴史を示しているとするなら、東南アジアのいわゆる日本や欧米の植民地建築の先進性や企業開発住宅地、「後藤新平」が尽力した台湾の街に代表されるような支配実態を示す都市計画や建築、それを支えた建築家・建築組織もあまり見えてこない。かつてアフリカの新時代に向けて計画された都市構想も実現に向かっていないようだ。一方、国づくりが遅れている現実のなかで将来に取り組む指導者も現れている。海外で学んだ次世代の都市計画家や建築家も帰国して活躍しているとも聞いた。中央アフリカの小国ルワンダの首都マスタープラン策定や都市計画は国際的な評価を得ているし、ナイロビのマスタープランは日本の支援で策定されている。これからは、混沌とした都市の活力と魅力、文化と伝統的生活の空間的特性を建築や都市デザインの思想に取り入れる手法が課題となってくる、それは機能主義とは違う価値による反地球フラット化ともいえる。
奴隷海岸の今
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■アフリカの開発 −資源から市民に
アフリカの巨大な消費市場や資源開発への世界の関心は高く、欧米や中国、韓国をはじめ各国が進出を競っており、援助と言う名で世界から押し寄せる草刈場の様相である。新年早々に、安倍首相もアフリカ諸国(コートジボアール、モザンビーク、エチオピア)を訪問した。また昨年(6月)には横浜で5年に一度の第5回アフリカ開発会議(TICAG5)が開催され、その数ヶ月間はアフリカにおけるビジネスチャンスがメデイアで多く取り上げられたが「とりあえずアフリカであれば」と言ったところが実感ではないだろうか。それほどにアフリカの成長には目を見張るが、豊かな資源や巨大な市場に打算ではかつての欧州列強の搾取の記憶と重なってくる。旧宗主国との特殊な利権構造から距離を置き、力ずくで進出する中国や韓国とも違い、外交力の強化により公正に市民社会の発展を支えること、価値観の異なる現地の視点での日本人らしい知恵と役割が求められているようだ。
素晴らしい事例もある。ニジェール共和国の各地で30年以上にわたって自力で医療活動を続けている谷垣雄三医師はあまりにも有名で「密林の聖者」といわれている。かつてガボン国(旧・仏領赤道アフリカ)で医療活動を行ったシュバイツァー博士の言葉「わずかな資本で比較にならない多くのことを成しうる」はわが国も旨としたい。エチオピアの政策アドバイザリーの大野健一教授(政策研究大学院大学)の名著書「途上国ニッポンの歩み 江戸から平成までの経済発展」は農業国が先進工業国になる過程を成功も失敗も含めて紹介する内容で、英、中、ベトナム、アラビア語に翻訳されている。暮らし改善を先進国の援助ではなく政府に代わって住民自らが公共サービスを行う支援団体や、「緊急自転車」で病人を搬送するソーシャルビジネスなども広がっている「循環型無水トイレの普及」「充電式LEDソーラーランタン」などNGO・NPOを支援している日本企業も多いと聞く。
この原稿執筆中に西アフリカでエボラ出血熱の感染拡大が続いており、「シューッ シューッ」とスチュワーデスが機内に殺虫剤を撒き飛行機は飛び立った。アフリカは援助からビジネスへの対象に変わってきたようだが遠い大陸と日本を見つめ直す機会となった。
アフリカ各地に残る産物輸送の鉄路跡
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中国企業によるビル建築現場
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〈日本設計 〉
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