JIA Bulletin 2015年7月号/海外レポート

ヤンゴンの歴史的建築遺産は未来に活かせるか?
−消失の危機迫る東南アジア最後で最大の都市建築遺産−

米澤 正己

米澤 正己


 ミャンマー連邦共和国の最大都市ヤンゴン中心市街地には、他の東南アジア都市に比肩するものがないほど数多くのコロニアル時代の建築物や産業遺構が残っており、同時に歴史的仏教遺跡を含む多様な宗教施設が存在している。それは約半世紀に亘って続いた独裁的軍事政権下、諸外国から経済的制裁を受けるなどして停滞した経済や鎖国的政策の中、人々が過去の遺産の中で生活を続けて来たことによる所が大きい。

 

■首都移転により空き家化した歴史的建築群
 ミャンマー政府は2005年になって首都をヤンゴンから秘密裏に建設を進めていたミャンマー中部の新都市ネピドーに移転した。その理由は公式な声明もなく、色々な説が唱えられているが独裁的軍事政権ならではの出来事であった。ヤンゴンの市民は、護衛されたトラックの車列が市街地に突然現れ、旧総督府を始め各省庁の建物から夥しい量の荷物を運び出すのを目撃して驚愕したという。その結果、19世紀末から使われてきたヤンゴン中心市街地の主な政府庁舎はもぬけの殻となり、建物は封印されて放置され、その後荒廃が進んでいる。
 ヤンゴン市都市開発委員会(YCDC)は公式の都市遺産リストを作製し政府庁舎を含む189棟の公共的建物を収載したが、その内の89の建物がダウンタウンに存在している。また歴史家タンミンウーにより2012年に設立されたNGO団体ヤンゴン・ヘリティッジ・トラスト(YHT)は広範な調査を行い、都市遺産として価値のある建造物は民間所有の建築を含めて1000棟以上存在すると主張している。しかしながら2011年の開放政策への転換により海外資本の流入により不動産開発が急速に進み始めると、これらの歴史的建造物は一挙に消失の危機に晒される状況となった。この危機的状況を踏まえて、ヤンゴンの歴史的都市中心部は、ワールド・モニュメント財団(WMF)により2014年度のワールド・モニュメンツ・ウォッチの対象に選ばれた。

 

パンソダン通り沿いの歴史的建築物群、
中央が旧ソファーズ・ビル(1906)
旧銀行建築群を挟んで右手奥が
港湾局の建物とタワー(1928)
パンソダン通り沿いの建築物群、
奥が旧金融庁(1900)
手前が旧チャータード銀行(1941)


旧ローエ・アンド・カンパニー
デパートメント・ストア (1910)
高等裁判所(1905〜1911)

 

■コスモポリスの誕生と過去の繁栄の面影残る街並み
  後の英国統治下に於いてラングーンと呼ばれたこの街は、古代この地を支配したモン族によりダゴンと呼ばれた宗教的聖地がビルマ族による征服によりヤンゴンと改名されビルマ王朝の都となった場所である。その後インドから東へ植民地支配を拡げようとした英国との2度に亘る戦いにより英国に割譲され、川に沿った低地帯が埋め立てられ、植民地支配の拠点として整備された街である。
 英国は1852年に第二次英緬戦争を行うに当たって、川沿いに整備する新たな都市の計画図をシンガポールの都市計画に関与したウィリアム・モンゴメリーに依頼して用意していたという。1885年の第三次英緬戦争により英国がビルマ全土を支配すると、ラングーンは英国領ビルマの首都となり、街はモンゴメリーの描いたプランとそれを引き継いだアレキサンダー・フレイザーの設計により建設され、20世紀初頭までには「東の庭園都市」と呼ばれ、ロンドンと肩を並べるほどとなった。コスモポリスとしてのヤンゴンの性格は、主に植民地都市としての歴史に因るところが多く、第二次世界大戦後の独立以前には、町の人口の半数以上がインドなど南アジア系、華人系、ユダヤ人など西欧系、およびそれらと現地人との混血であったという。その結果ヤンゴンは、世界的に見てもあまり類がないほど、さまざまな宗教や民族による多文化共生の町となり、独特の宗教的遺産に加えて19世紀後半から20世紀初頭にかけて建てられた、東南アジア最多と言われる植民地時代の歴史的建築物群を受け継ぐ街となった。

 

1940年頃のヤンゴン(碁盤目状の街並み)

 

■歴史的建造物の現状とその保存と再生への動き
 筆者はYHT所属の研究員の案内で中心市街地の歴史的建築群と街並みを見て歩いたが、どの建物にも物語があって面白い。その中で一際規模が大きな建物が旧総督府である。建物はビルマの英国領インドへの併合に伴い、英国のビルマにおける総督府として建てられたものである。設計は英国人建築家ヘンリー・フォックスによるもので、1889年から段階的に建設が開始され1905年に今日見る全体が完成した。その後英国によるビルマ統治の拠点として、そしてビルマの独立に至る歴史の舞台ともなった場所である。1947年には英国からの完全独立を目前に若きアウン・サン将軍が6名の同僚と共にこの建物の中で暗殺された。政府機能の移転後は適切な維持管理もなく最近まで警察職員とその家族が住み込んだりして建物は荒廃した状態となった。ミャンマー政府はこの広大な敷地と建物を民間企業にリースして、ホテルとして再利用したり博物館として再生する案が上がっている。昨年にはオバマ大統領が視察に訪れたりして注目されたが、ルーブルよりも広大なこの建物を再生する具体的動きはまだ無い。

 

旧総督府 東側正面 (1889〜1905)

 

 市の中心部を桟橋に向けて南北に走るパンソダン通りは、植民地時代の銀行や商業建築が軒を連ねる目抜き通りである。マーチャント通りとの交差点に建つソファーズ・ビルは、バグダッド生まれ、ラングーン育ちのユダヤ人貿易実業家、アイザック・ソファーにより1906年に建てられた。アイザックはここで欧州などから輸入した酒類や各種食材を商い、また金融機関や保険会社の他、ロイター通信社もこのビルに拠点を構えるなど、20世紀初頭の国際都市ラングーンにおける情報発信や商業活動の中心地であった。今でも床にはマンチェスターから取り寄せた高価なモザイクタイルが残っており、鉄骨にはスコットランドの鉄工所の名を見ることができる。現在、1階は銀行やカフェ、レストランなどとして使用されているが、内部や2階以上の階は人々が住み着いたりして床が踏み抜けそうな程荒れるに任されている。
 川沿いのストランド通りには、歴史的なストランド・ホテルや英国大使館などが建ち、安倍首相が訪れ支援を表明したミャンマー郵便システムの拠点である歴史的中央郵便局の建物もある。また税関建物の隣の足場で覆われた長大な建物は、法廷や警察庁舎として使われた建物であるが、ラングーンを占拠した日本軍が憲兵隊の拠点として使用した建物でもある。建物自体はトーマス・フォスターの設計により1931年に建てられたが、そのデザイン画は長くロンドンのロイヤル・アカデミーに飾られたという。政府機能移転後は建物の構造と基本的外観は保存するという条件付きでリース契約が入札に掛けられ、地元企業と国外企業のグループが約50億円といわれる金額で落札した。この企業グループは建物を改修し、最上級5スタークラスのホテルとして活用する予定だという。
 民族主義的な様式で建てられた市庁舎の隣に建つ建物は、20世紀前半にはロンドンのハロッズと比較されるほどのデパートメントストアであった。1964年に当時の社会主義政権により接収され、後に政府の出入国管理局として使用されたが政府の新首都移転により建物は放置され、特に2008年のサイクロン・ナルギスにより屋根が損壊してからは荒廃が進んでいた。2010年に建設省により保存処置の対象となる5件の歴史的建造物の1つに指定され、調査と応急的保存処置がとられたが、その後ミャンマーの富豪が買い取り大規模な改修が行われ、銀行のオフィスとして昨年オープンした。苔生して真っ黒であった建物外壁も補修され明るい色に塗り替えられて、歴史的建築物の保存再生の先駆的事例となった。

 

■求められる歴史的建築物を活かした今後の街づくり
 このように歴史的建築物の保存と再生の動きはあるものの、複雑な所有権や役所の規制にも拘わらず、不動産需要の高まりと東京都心並みに上昇した不動産価格に押されて建て替えによる開発が各所で進んでいる。一方で風化した都市遺産の中で生活してきた人々の生活習慣は、仏教の輪廻転生の世界観や建物保全への関心の低さと融合して独特の景観を造り上げている。東南アジアに残された最後にして最大の歴史的建造物群を資産として活かしながら暮らしやすく活気に満ちた都市へと再生できるか、緊急な対策と具体的ビジョンが求められている。

 

旧裁判所 (1931)、
Thomas O. Fosterのデザイン画 (1926)
(現在は改修工事のため仮設足場で囲われている。)
旧インド帝国銀行(1914)


ストランド通り沿いの景観 (奥が港湾局(1928)
手前がストランドホテル(1901))
中央郵便局 (元々はミャンマー有数の貿易会社のオフィスとして1908年に建てられた)

 

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