JIA Bulletin 2016年11月号/海外レポート

福建土楼
〜客家の集合住宅について〜

安部 裕光

安部 裕光

 

 中国で住宅設計の仕事に携る中、暮らしの歴史について調べていて、この奇妙な建物に出会った。無数の宇宙船が突然、山の中に降り立ったかのようなとてもインパクトのある外観で、内部でどのような暮らしが行われていたのかを知りたくなり、この夏、福建省の山奥にある福建土楼を訪れた。
 まず「客家(はっか)」とは何か。「客家」は黄河中流・下流に居住していた客家語を言語とする漢民族のことで、戦争や歴史的要因によって4世紀〜19世紀にかけて5回の大規模な南下を行い、四川・福建・広東・海南などに定住した。「客家」という呼び名は、後から移り住んで新しく取得した戸籍が「客」と呼ばれたことに由来する。客家人は勤勉で相互に助け合う精神が強い。一方、どの地でもよそ者扱いされてきた苦い経験から、外部の人間の意見をあまり受け入れないという一面もある。世界の客家人は1億人以上いて、華僑として活躍している東南アジア人にも客家出身者が多く「東方のユダヤ人」とも言われている。
 その客家の住居が「客家土楼」と言われ、北方の四合院と同じく、外に閉じ内に開く概念を持っている。敵からの防衛目的も強いため、厚い壁で覆われ、入り口は一つ、窓も2階以上の階に最小限の換気用の窓しかついていない。規模は直径30mから大きい物は70mを超えるものもあり300人以上が生活する場となっている(写真1)。四合院に近い群体住居に始まり、円形や楕円の環形土楼や四角の方形土楼、山の中腹に建つ斜面土楼などさまざまなタイプがある。
 外壁は土壁だが、外壁以外は全て木造で作られていて、内部で廊下が一周している。階段は規模にもよるが2〜4カ所の場合が多い。1階は厨房、2階は倉庫、3階以上に寝室が配置され各部屋とも共用の階段よりアクセスする動線になっている。土楼にもよるが、中央の空洞部分に催時施設や客室、家畜舎などが配置されている。

 

写真1 塔下村の土楼

 

 全国には2万以上の土楼があると言われているが、多くが福建省の永定県および南靖県に集まっている。
 今回、私は厦門市から新幹線と地元のバスを乗り継ぎ、最後はオートバイの後ろに跨って南靖県にある土楼群に到着した。方言の問題か発音が悪いのか、私の片言の中国語はほとんど通じず、到着するまでにかなり苦労したので、たどり着いた際の感動は一際大きかった。
 初日は塔下村という小さな村で1泊して、近くにある土楼を歩いて見て回った。
 最初に「内部でどのような暮らしが行われていたか」と書いたように、土楼自体は過去に使われていたもので現在は見学用のものと思っていたのだが、実際は全ての土楼が住居として普通に使われていた。最初に見た土楼は小規模のもので5世帯程の家族が暮らしているように見えた。1階回廊の数カ所にトタンの屋根がかかり、その下に配管むき出しのシンクとテーブルの上に載ったコンロ(良く見るとIH)が置かれていた。夕飯時ではあったが、おばあちゃん2人と女の子1人が作業をしていて他には人の気配が無かった。洗濯物は何カ所も干されていたので、住んではいると思うのだが、男性は働きに出ていたのかもしれない。
 翌日、知り合いになったバイクの運転手に迎えに来て貰い、複数の土楼を見て回った。福建土楼の故里である南靖県は「土楼の王国」と称されていて、中でも「裕昌楼」と「田螺杭土楼群」は世界遺産の紹介写真の中でもたびたび登場する最も有名な土楼に挙げられる。
 「裕昌楼」は14世紀末に建てられた現存する福建土楼の中で最も古い土楼で別名「よろめきの楼」とも言われている。土楼竣工後、建物内部回廊の柱が傾きはじめて最大傾斜15度の部分もあり、見た所は崩壊寸前である。しかし600年以上の風雨と度重なる地震にも耐えて今もなお均衡を保っている。本来は7階建てだったが、瓦の施工時に火事があり、縁起が悪いので5階建てになったといういわくつきの土楼でもある。各階には54に等分配された部屋が並び、全て内側に開いている。明らかにいつ壊れても不思議でないこの建物に今も普通に暮らしているところが日本で暮らす自分には考えられないが、彼らにとっては代々受け継いできたこの建物を離れることは頭の片隅にも考えていないのではないかと、住民の笑顔を見て思った(写真2)。
 「田螺杭土楼群」は山の中腹に建てられた5つの土楼群のことで、18世紀後半に建てられた比較的新しい建物で保存状態も比較的良い。山の上から見下ろすと方形・楕円・円形の形をした5棟の形がはっきりとわかり、各土楼の配置が絶妙なバランスを保っている。また土楼の周りには棚田が形成され、自然の風景としても非常に美しく、土楼は完全に溶け込んでいた(写真3)。
 展望台からの景色を堪能した後、5つの土楼群の中に連れて行ってもらったのだが、そのうちの楕円土楼の中にバイクのおじさんの実家があった。ちょうど雨も降ってきて、雨宿りも兼ねてしばらく1階の食堂スペースで休憩をさせてもらった。この土楼群は黄一族が建てたもので、この中に住む人は全員黄さんで、もちろん運転手のおじさんも黄さんだった。4帖半程の狭い空間に食堂・洗濯室があり、キッチンは前日に見た土楼と同じく廊下に出ている。ここに住むお母さんは一人暮らしで、当然エレベーターなどない中、寝室のある3階まで毎日階段で昇り降りをしているという。大変だと思うが、住んでいる人達にとってはごく自然で、逆に適度に身体を動かすことで健康で長生きしているように思えた。一つ屋根の下に住んでいる大家族としての連帯感もあるのだろう。ただ、若者が減っているのは間違いなく、この文化が今後いつまで続くのか、少し寂しい気持ちにもなった。

 

写真2 裕昌楼
写真3 田螺杭土楼群

 複数の実際に生活する土楼群を見て回っていて、ふと日本でも昨今普及しつつあるシェアハウスの住まい方に似ていると感じた。個人の寝室を最小限確保して、その他の機能は共用とする。特に厨房については中庭を囲むように廊下に張り出し配置され、隣の家族同士でコミュニケーションを取りながら食事をつくり、会話を楽しむ。住宅の機能を分割して共有の豊かな空間をシェアするスタイルは、何百年も前にすでに確立したスタイルだったのではないだろうか?ただ、家族の連帯を大事にして暮らしてきた客家人と人間関係が希薄になりつつある現在の日本では背景が全く異なるので、それぞれの文化に適した空間提案が必要であることは言うまでもない(写真4)。
 今回の旅で、現地を訪れそこに住む人達と直接触れ合うことが、その建築の背景を理解するために重要であることを再認識できた。また、その場所に辿り着くまでの大変さと旅の充実感が比例することを改めて実感した。今後も世界各国の集落を訪ねて自分自身の財産にしたいと思う。

 

写真4 1階廊下の厨房

 

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