JIA Bulletin 2017年 3月号/海外レポート

漢江ハンガンの奇跡」その後
もう一つのソウル
―歴史と環境都市への挑戦―

安部貞司

安部貞司

 久しぶりにソウルを訪れる機会がありました。国の苦難と発展、栄枯盛衰の歴史の証人でもある大河漢江ハンガン長雨チャンマで水量が増して茶色の急流になっていた。相変わらず日々刻々と都市の姿を変えている感がある。バブル崩壊後、国際競争力や都市間競争力が落ちている日本の都市に対し「漢江ハンガンの奇跡」後の時間を経て「進化」と「深化」するソウルの新しい風を読み解いてみました。

1980年代のアジアは燃えていた

 英国のEU離脱やトランプ新米国大統領の動向が注目され、今後の世界への影響について注視されている。昨年(2016)5月に伊勢・志摩で主要国首脳会議(G7)が開催された。1973年の第4次中東戦争のアラブ諸国によるオイルショックの危機を克服するべく1975年に仏・ランブイエで5か国(日米英仏独(伊))で始まった会議は42回目となる。その年の日本は、高度経済成長は石油危機で終わりを告げ、トイレットペーパー騒動、大学生の就職難そして田中角栄元首相の唱えた「日本列島改造論(1972)」ブーム。
 アジアや中東諸国にも出掛ける機会も多かったが、私が最初にソウルを訪れたのは35年位前。その頃の韓国は「漢江の奇跡」と称される経済成長をバックに建設ラッシュで、漢江の川面に映える東洋一の高さの黄金色の超高層ビル(大韓生命63ビル)は、発展する韓国の象徴だった。87年の民主化宣言や夜間外出禁止解除などで街が明るくなり、人々に余裕すら感じられた。80年代のアジアNIES の韓国、台湾、香港、シンガポールの経済発展は「四国の小龍」とたとえられ、続いて中国やドイモイ政策(1986)のベトナム、マレーシアなど東南アジアが急成長し、世界の経済成長センターといわれアジアは燃えていた。バブル景気の崩壊(1991)やリーマンショック(2008)の金融危機で「失われた20年」と停滞する日本経済を横目にルックイーストと世界中が羨望の目で見ていた。
 2000年代に入ってBRICSの躍進や最大の輸出相手国の中国の景気減速、ドバイショック(2009)、さらに円安ウォン高などで最近の韓国経済は変調をきたし国政の混迷も拡大が懸念され、不安定化している。

記憶を残す都市・環境にやさしい街

 東京を欧米列強にならぶ近代的首都へ改造する「市区改正計画」(1888、明治21)は、オスマンのパリ都市大改造の影響を受けたビスタを重視したバロック的な都市計画といわれる。当時の京城市もパリ大改造の影響を受けて道路を直線化した(総督府、光化門通り=世宗路、京城府庁舎、太平通り=太平路、京城駅)都市が計画された。現在は都市戦略でソウルを環境にやさしい街へ生まれ変わらせ、過去の記憶を未来へつなぐデザインで、伝統と現在そして未来の共存する新たな魅力創造を目指している。

◆清渓川の再生

 車中心の都市開発と環境汚染のため、ソウルの象徴的な清渓川チョンゲチョンは70年代に暗渠化して車道となり、その上を高架道路が走った。それを撤去して親水河川を再生する「清渓川復元」は光化門から東大門まで約6kmが完成し見事に清流を取り戻した(水はポンプで流水)。清渓川はかつて朝鮮王朝遷都の風水地理にさかのぼる由緒ある大事な流れだった自然河川の復元により、歴史的文化遺跡が都市型親水空間の水辺文化を創造し、郷愁的風景の再生と周辺地域の整備活性化にも取り組んだ。

◆環境にやさしい新ソウル市庁舎

 ソウル市は再生可能エネルギー利用の義務化では日本より進んでいる。ソウル広場前の図書館は1926年に京城キョンソン府庁舎(設計は総督府建築課の岩井長三郎)として建てられた旧ソウル市庁舎(1946~)、その隣に建つ新庁舎(2012)は再生可能エネルギー(太陽光、太陽熱、地熱など)の利用が28%といわれる。韓国の伝統家屋の軒を引用したガラスデザインの建物は、屋根全体が太陽光パネルで覆われている。

◆東大門周辺の風景再現

  ソウルは城門で囲まれた「城内町」で李 成桂イ ソンゲが1384年に開城ケソン(北朝鮮)から首都を移した際に風水思想に基づいて都市建設が行われ、景福宮キョボツクン(1395)や東大門トンデムン西大門ソデムン南大門ナンデムン北大門ブッデムンの4大門と城壁が完成した。オリンピックで蚕室チャムシルスタジアムができるまでは高校野球やプロ野球、サッカーなどが開催された東大門運動場の跡地にはザハ・ハディド氏の設計による東大門デザインプラザ(2014)が建設された。3つの巨大な流線型の個性的な建物と記憶として野球場の照明塔が残され東大門(興仁之門)を中心に歴史文化公園として整備し、漢陽城壁も朝鮮時代の景観に復元された。


写真1 大会会場の分解模型
 

太陽光パネル屋根のソウル市庁舎と旧京城(キョンソン)府庁舎、徳寿宮(トクスグウ)

東大門(トンデムン)デザインプラザ(D・D・P)

◆北村の韓屋保存地区

  韓国でのまちの単位は大通りを「」、そこからの枝道を「」と呼ぶ、この路と街で囲まれたところを「ドン」という生活空間が広がっている。北村ブッチョンは景福宮や昌徳宮チンドックンの宮殿に近い高台という立地から李朝時代の官僚が住んでいた高級住宅街であった。今でも多くの韓屋(900棟)と家並みが残る地域は朝鮮時代の伝統的地域として保存されている。80年代にスタートした北村の保存政策は2000年代に「北村づくり事業」として住民主体の活動に移行し「韓屋保存地区」に指定した。一般市民が居住している地域に昔ながらの商店や新しいカフェなどの店が軒を連ねている。


北村(ブッチョン)の韓屋保存地区

◆モダン都市京城と李朝の情景

 日本の統治時代に多くが撤去された李氏朝鮮時代の故宮の再生が行われた。かつて光化門の正面に建っていた旧朝鮮総督府は1995年に解体され、景福宮を復元した。旧総督府庁舎の設計は、朝鮮ホテルや風見鶏の館なども設計したドイツ出身の建築家のゲオルグ・デ・ラランデ(西洋式自邸は江戸東京たてもの園に移築)による。昌慶宮チャンギョングウも動物園や遊園地を取り除き復元されたが、園内の韓国初の西洋式温室(1909)は登録文化財として保存されている。明治時代の新宿植物御苑(新宿御苑)の温室に似ている木骨鉄骨混構造ガラス建築は、日比谷公園などの近代式庭園を手掛けた宮内庁の造園家・福羽 逸人ふくば はやとの設計。この頃に日本で活躍していた外国人建築家も活動を朝鮮、中国、台湾にも展開し、とりわけ韓国での活動は盛んで今も多くの建築が現存し、ウィリアム・メレル・ヴォーリス設計の名門女子大学の梨花ィファ女子大学キャンパス(1935)など歴史的背景の雰囲気を実感させてくれる。

均質化しないソウル

 ソウル(SEOUL)は漢字では書けない都市だ。李王朝第4代・世宗セジョン大王(1397~1450)の時代にハングル文字表記が編み出された。現在の「ソウル」は高麗時代に「漢陽ハニヤン」、李朝時代は「漢城ハンソン」そして「京城キョンソン」と呼ばれたが、通称として「ソウル」が使われていた。旧城内の市街「市内シネ」を意味していたともいわれる。財閥ビルや高層ビルが建ち並ぶ近代都市となって街から余白空間が消えているが、表通りを一歩入ると間口1~2間の商店が軒を連ね、人々の生活する熱気や人間味、混在・交錯・曖昧化する都市の生命力と多様性を感じる。それは均質化しない社会ともいえる。「韓国」と「日本」というキーワードになると「重苦しい歴史」が浮かび上がる。近代史を物語る場所も再開発で姿を変えているが、見方によっては自己確認と脱日本化でもある。社会正義を重んじる韓国社会は公有財産を資源として単にメモリアルではなく「都市の記憶」を残し、都市文化の醸成を図っている。阪神・淡路大震災(1995)、東日本大震災(2011)を機に議論されている合理化を追求したモダニズム建築を超える思想、建築の価値、場所の使い方のデザイン、歴史的な背景、建築と国家・公共、市民合意など、成熟社会に向けた日本の今日的課題でもある。

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