JIA Bulletin 2020年春号/海外レポート
ロシア・アヴァンギャルド建築を訪ねて
—ル・コルビュジエ、マエカワ、サカクラのロシア—
篠田義男

 昨秋、サンクトペテルブルクとモスクワ両市に現在も残るロシア・アヴァンギャルド建築を訪ねる念願の機会があった。モスクワの中央建築家協会を表敬訪問し、報道担当のダリア女史から見事なネオ・ゴシックの館内を案内していただいた折、踊り場に置かれた同協会のフリーのリーフレットを見つけた。そこには、ロシアの建築家ムハメドハノフ氏が1964年東京で前川國男に会ったことと、福島教育会館、東京文化会館、学習院大学の写真が掲載されていた。
 このことから、ロシアの旅はミステリアスになり、前世紀のはじめ、ロシアに起こった新しい建築の波と日本の2人の建築家の関係を紐解くものになっていった。
 前世紀初頭、世界は第一次世界大戦の惨禍とロシア十月革命という大きな変革の時代にあった。それに続く時代、建築の世界でも大きな変革の時代が幕を開け、コルビュジエを中心とした新しい建築創造の衝撃がロシアはもちろん、遠い極東の日本にも届いていた。その波に押されるように2人の青年が大学を卒業し、間もなく1人はシベリア鉄道に乗り、もう1人は長い船旅を経て、パリのコルビュジエのもとに渡った。その2人とは前川國男であり、坂倉準三だった。
 コルビュジエは変革の震源地ロシアから、ロシア・アヴァンギャルドという先鋭な芸術運動の影響を受けていた。2人の青年はコルビュジエのもとでツェントロソユーズやソヴィエト・パレスなどの設計を通じ、ロシアにつながりを持つことになった。


図1 モスクワの中央建築家協会のリーフレット。
ムハメドハノフ氏は1933年タシケント生まれ、ロシア名誉建築家。

1929年、パリ

 コルビュジエのアトリエに近いセーヴル街のホテルリュッテシャで、坂倉は前川に初めて逢った。すでにコルビュジエのアトリエで働いていた前川が、師コルビュジエへの面会を坂倉から要望されたのは1929年の秋のことだった、と坂倉の追悼誌『大きな声』に前川は想い出を寄せている。東大美学出身の坂倉は、コルビュジエの勧めもありパリの専門学校で建築を修め、実際に入所が許されたのは1931年になってからであった。アトリエではサヴォア邸、ツェントロソユーズなどのプロジェクトが続いていたが、1920年代の輝ける建築の時代から転換の時期でもあった。
 坂倉の初めての担当は、モスクワ川に面した救世主ハリストス大聖堂の跡地に計画された、ソヴィエト・パレスのコンペであった。このコンペは、複雑な経過を辿るが、のちに丹下健三など世界の建築家に強い影響を与えたといわれるロシア構成主義的色彩を強く感じさせる、素晴らしいドローイングをコルビュジエは提出した。
 ヨーロッパの辺境であったロシアは、西欧から文化的影響を受け続けていたが、1917年の十月革命を契機に逆に世界を刺激し始め、世界に衝撃を与える。その激動の時代に、マエカワとサカクラはコルビュジエのもとで建築を志すことになったのである。
 ソヴィエト・パレスのコンペは革命の成果を世界に問うものであると同時に、ソヴィエト国内のアヴァンギャルドだけにとどまらず、世界の注目を集め、コルビュジエ、グロピウス、ペレなど世界の有力な建築家がこぞって参加した。しかし1924年のレーニンの死を境に、世界革命を目指すトロツキーが排除され、一国社会主義を標榜するスターリンが権力を掌握すると、蜜月が続いていたロシア・アヴァンギャルドを囲む状況にも、徐々に逆風が吹き始める。コンペでは、アヴァンギャルドやモダニストの案は無視され、のちに「スターリン様式」とも呼ばれることになる古典主義的なイオファン案が選定された。アヴァンギャルド建築の敗北の年として1933年は記憶されることになった。


図2 ソヴィエト・パレスのコルビュジエ案ドローイング
(『大きな声 ―建築家坂倉凖三の生涯』より)

ツェントロソユーズ

 1928年に実施されたツェントロソユーズ(旧ソ連消費者協同組合中央同盟)コンペは、ヨーロッパの先進的な建築家が招待されたなかコルビュジエ案が選定されたが、ニコライ・コリィの協働で1936年にようやく竣工した作品である。コルビュジエが1920年代に確立したテーゼ「近代建築5原則」に従ったピロティと軽やかなカーテンウォールのコンペ案だったが、モスクワの厳冬期では耐えられないという厳しい批判から、外壁はコーカサス産の厚い凝灰岩へ変更され、ピロティ部分の改変など多くの望まない事態も実施の過程で発生したといわれる。
 前川が1928年から1930年、坂倉が1931年から1936年までコルビュジエのもとに在籍し、奇しくもツェントロソユーズのプロジェクト期間に重なり、前川はその担当にもなった。コルビュジエは山積する課題解決の説得に、何度もモスクワに出かけたといわれ、アトリエでの前川、坂倉は、その苦い進行状態やロシア・アヴァンギャルドの事情を貪るようにコルビュジエから吸収したのではないだろうか。今訪れてみると、圧倒的な量塊のメインの立面とは違い、裏のミャスニーツカヤ通りからは、同時期に進行していたスイス学生会館を思わせる軽やかで自由な立面も見られ、コルビジュエの意思もここにはわずかながら見出すことができる。


図3 ツェントロソユーズ(ミャスニーツカヤ通りファサード)

ロシア・アヴァンギャルド

 ロシアにたびたび出かけたコルビュジエが見た、ロシア・アヴァンギャルドの建築風景はどのようなものだったのだろうか。ヨーロッパを席巻したキュビズム、イタリア未来派などの影響を受けながら、十月革命の2年前の1915年、マレーヴィチの「シュプレマティズム宣言」辺りからアヴァンギャルドの活動は一気に本格化した。1917年のタトリンの第三インターナショナル記念塔計画や1924年のリシツキーの高層ビル案で、ロシア・アヴァンギャルド建築は概念的な新しい姿を世界に提示したと思われる。
 実作として、十月革命発祥の街サンクトペテルブルクには、革命10周年記念のスターチェク広場周辺に、ゴーリキー文化宮殿、旧キーロフ・デパート、旧十月革命10周年記念小学校など構成主義建築を配置することで、新しい都市の姿を実現してみせた。モスクワでは、シューホフのラジオ塔(1922)、メーリニコフのゴスプランガレージ(1926)、 メーリニコフ自邸(1929)、ルサコフクラブ(1927)、ゴーロゾフのズーエフクラブ(1927)、ヴェスニン兄弟のジル工場文化宮殿(1931-1937)と、たて続けにアヴァンギャルドから生まれた構成主義建築の秀作を実現していた。


図4 シューホフ・タワー(1922)

図5 メーリニコフ邸(1929)

モスクワ・東京・パリ・弘前

 前川は、2年間のコルビュジエのもとでの研鑽を終え、1930年帰国する。翌1931年、右傾化する日本の状況のなかで開催された上野の帝室博物館コンペに、果敢に師譲りのモダニズム案を提出するが、落選する。しかし、パリから日本に帰る船上で素晴らしいクライアントに巡りあい、1932年弘前の地に木村産業研究所という美しい「白い箱」を実現した。
 坂倉は長いパリ生活を経て1936年いったん帰国するが、パリ万国博の日本館建設のために再渡仏する。コルビュジエのアトリエを借りながら、驚異的な短期間で日本館の設計をまとめ上げる。日本館に求められていた「日本趣味」に媚びない、師コルビュジエとも異なる透明な空間を持ったパヴィリオンを完成させ、アアルトのフィンランド館、ピカソのゲルニカが出品されたセルトのスペイン館と並んでグランプリを受賞した。日本政府は推薦を辞退したが、オーギュスト・ペレ委員長の裁定でグランプリ受賞が決まった。

 さて、ロシア・アヴァンギャルド建築の転換点になったソヴィエト・パレスのコンペ選定案「イオファン案」だが、第2次大戦の突入、根切り工事の出水などで基礎のみ着工されたまま放置され、戦後はモスクワの大屋外市民プールとして利用されていた。しかし、ソ連崩壊後の2000年、大市民プールは跡形も無く撤去され、ソヴィエト・パレス建設に向けて爆破された救世主ハリストス大聖堂は何事も無かったように復元されている。

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