JIA Bulletin 2023年冬号/海外レポート
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シンガポールの都市計画に思う
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大木賀惠
緑の交易都市
北緯1度。シンガポールは、マレー半島南端に浮かぶ面積約700km2の島を中心に形成された都市国家である。
土地利用計画や景観保護が政府主導で積極的に行われ、住民のシビックプライドが高いなど、熱帯の小さな島だが、都市計画に取り組むスタンスは旧宗主国のイギリスと近い。電柱のない市街地に、景観ガイドラインに則ったファサードが立ち並ぶ様子は、どこかヨーロッパ的であり、そこへ植えられた南国の樹木や植物が、熱帯の彩りを添えていている。
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竣工から日の浅いガーデンズバイザベイと周辺地域。右側はスーパーツリーの並ぶ屋外エリア。海上は入港を待つ船で常に混み合っている
また、大航海時代以前から、東洋、中東、アフリカ、西洋を結ぶ交易の要として今日も機能している地である。1942年から3年間、日本軍による占領が社会やインフラに非常に暗い影を落とすが、戦後は東南アジアでいち早くコンテナヤードを整備するなどして国際舞台に復活し、上海に次ぐ世界第2のコンテナ港(2021年)や、年間6千万人以上が利用する(2019年)チャンギ国際空港に象徴されるような、国際的な中継都市として発展を続けている。まもなく植民地化から200年、独立から60年の節目を迎えるが、東西の間に浮かぶガーデンシティーを標榜するこの都市は、どのように今日のアイデンティティーを築いてきたのだろうか。
イギリスによる植民地化
19世紀前半にイギリスによる統治が始まると、ジャングルに覆われていたこの地に現在の都市計画の基盤が築かれ始める。ヨーロッパ、中華、インド、 マレー系など、 さまざまな人種が入植し、住宅、教会、寺院、モスク、公園、植物園などが整備されていく。折衷様式であるペラナカンスタイルや、インターナショナルスタイル、アールデコなど、比較的バラエティーに富んだ建造物がこの期間に建てられ、港町らしい異国情緒のある景観を形成した。この時代のシンガポールは、現在のクリーンで緑豊かなイメージとは異なり、かつての香港映画に出てくるような、港町らしい喧騒に満ちていたという。北杜夫氏の『どくとるマンボウ航海記』に描かれた1958年当時のシンガポールの港や観光地の様子からも、そのことを察することができる。
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金融街の道教寺院、ショップハウス、高層ビル
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金融街に隣接するエリアの路地。下町の空気が漂う
独立と都市計画の新たな出発
第二次大戦後、東南アジア各地で起きた独立の流れに乗り、1963年、シンガポールを地方都市として含むマレーシアが、イギリスから独立する。しかしマレー色の強い中央政府と、中華系住民の多いシンガポールの間には大きな軋轢が生じ、1965年、シンガポールはマレーシアから一方的に追放される形で独立を余儀なくされる。
資源やライフラインを半ば断たれた熱帯の狭小な土地でどうやって生き残っていけばいいのか。建国の父、リー・クワンユー初代首相が、独立会見で涙を見せたエピソードは有名である。しかし、この不本意な独立への悔しさをバネに、首相の強力なリーダーシップの下、国外からの投資の誘致、土地資源の最適化、住宅供給、民族融和など、山積する課題に政府は次々と取り組み始め、シンガポールは都市間競争の階段を異例のスピードで駆け上っていくことになる。
1966年、土地収用法が策定される。国土の大半を政府が所有し、戦略的な土地利用計画を実施する基盤を整えるためである。個人や企業は国有地を期間限定でリースすることはできるが、政府がその土地を必要と判断した場合は、速やかに返却しなければならない。また、土地の購入はシンガポール人に限定されている。
次ぐ1967年には現在のシンガポール像の土台となるガーデンシティー構想が首相によって提唱される。植樹や、公園・緑地面積の拡大、効率的な交通網の整備等、国家的な緑化プロジェクトがスタートする。清潔で便利で緑豊かな都市空間をすべての国民が等しく享受できる環境は、海外の投資家にとっても魅力的に映り、国民と経済活動の双方に良い影響をもたらすことを見越していたといえる。現在は、植物園やガーデンズバイザベイなど、国立公園局に委ねられた面積は、実に国土の10%以上に及び、それらは約320kmに及ぶパークコネクターと呼ばれる道路網によって結ばれているが、早朝にこれらコネクターに行ってみると、多様な人種や国籍の人々がジョギングやエクササイズに勤しむ光景に出会うはずだ。
近代建築、そして丹下健三の役割
1971年、国土利用の指標となる「コンセプトプラン」が策定される。このプランは、約10年ごとに見直しを加えられながら現在も活用されているが、この実現に、I.M.ペイ、フィリップ・ジョンソン、 ノーマン・フォスター、モシェ・サフディ、丹下健三、黒川紀章、槇文彦など、多くの建築の巨匠が主要な公共施設や商業施設のデザインを通して関わってくる。
特に丹下健三は特別な存在である。1970年に香港大学でリー・クワンユー元首相と同時に名誉博士号を授与された際、2人は意気投合し、その後、重要なランドマークとなる複数の作品や、マリーナサウス地区のマスタープランを手がけるなど、数十年にわたってシンガポールの都市形成に深く関わっていく。UOBプラザやインドアスタジアムの持つ軸線やオープンスペースが周囲の空間を有機的につないで、広く人々に開かれた「場」を形成している様子は、ローマのカンピドリオ広場のようですらある。厳しい施主として知られるシンガポール政府が、多くのプロジェクトを氏に委ねた背景には、氏の都市全体の発展を見据えた姿勢が、リー・クワンユー元首相をはじめ、政府高官らの目指す国家像と強く共鳴したからではないだろうか。
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旧最高裁判所のクポールの背景に並ぶ、丹下都市建築設計による一連の作品
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UOBプラザから眺めるコロニアル地区。正面の円筒状のビルはI.M.ペイ設計のホテル。左の円盤状の屋根が見えるのはノーマン・フォスター設計の最高裁判所
コンパクトシティーの到来に向けて
建国40年にあたる2005年頃から、ガラスを多用した透明でボリューム感のあるデザインがトレンドに加わり、透ける空間の中にはさまざまなサービスが配置され、コンパクトシティーの概念は可視的なものとなる。街中で見かける緑はさらに増え、都市計画では、ガーデンシティー(田園都市)に代わって、シティーインザガーデン(田園の中の都市)という立体感ある表現が多用されるようになる。より効率的な空間利用を求めて、IT、エネルギー効率、環境負荷の軽減といった要素が積極的に導入され、大空間の中に水、緑、職、住、遊などを3次元的に配したダイナミックな空間が一斉に開花していく。
代表的なプロジェクトとして、モシェ・サフディが手がけたマリーナベイサンズや、チャンギ空港のジュエル、DPアーキテクツとウィルキンソン・エアーによるガーデンズバイザベイ(ドーム部分)などが挙げられる。これらガラスに覆われた巨大空間ではセントラル冷房が採用されているが、マリーナベイエリアは、湾(現在は淡水貯水地)の水を利用した地域冷房網で連結されている。この技術を用いた一体的な地域開発手法はすでに中国主要都市にも輸出されている。
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雨水を再利用した滝を中央に配したジュエル(チャンギ国際空港内の商業施設)
建国60年に向けて
大胆な国土改造により、熱帯の近代オアシスとして発展を続けるシンガポールだが、海外からの不動産需要が増え続け、慢性的な地価高騰に見舞われている。国民と永住者以外の者が不動産を購入する場合は販売価格の20%を超える印税を義務付ける等の対策を講じてはいるが、熱が冷める気配はない。ただ、このように都市間競争で常に優位に立ち、さまざまな国にとって経済的に重要な拠点であることは、外交において強力な切り札となっている。
独立から60年近くが経ち、巨匠らの作品が緑の中に佇むシンガポールのランドスケープからは、建築の社会的責任や可能性をさまざまなスケールで感じることができる。丹下氏の数々の仕事も含め、ここには今の日本の都市計画にとって有益な情報が数多く詰まっているのではないだろうか。
大木 賀惠(おおき かえ)プロフィール
1999年京都工芸繊維大学卒業、フランス政府給費留学生として渡仏。2003~2007年フランス国鉄グループ勤務。2004年パリ・ラ・ヴィレット建築大学卒業。2008年パリ第4大学博士課程修了。2007~2022年シンガポールにて都市開発関連の翻訳や日本文化や日本語の紹介に従事。