JIA Bulletin 2020年夏号/覗いてみました他人の流儀
高山 明氏に聞く
観客の身体感覚や知覚を動かす
演劇のかたちを模索する

撮影:奥祐司
高山 明

今回お話をうかがったのは、アーティストであり演出家の高山明さん。ドイツで演劇と出合い、現在は日本を拠点に都市を舞台にした作品を数多く手がけ、国内外で独自の演劇プロジェクトを展開しておられます。演劇に対する思いや、現在考えておられることをお話しいただきました。

―演劇活動を始めたきっかけを教えてください。

 ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンなどを勉強したいと思い、22歳の時にドイツのフライブルク大学に留学しました。しかし、ドイツ語で学ぶことは想像以上に困難で、絶望感や孤独を感じていた時に、シュトゥットガルトでピーター・ブルックという演出家の「妻を帽子とまちがえた男」という舞台を見る機会がありました。その時、決して自分は舞台に没入していたわけではないのですが、とても集中していて、身体感覚や知覚が覚醒するような体験をしたのです。これに衝撃を受け、その晩、そのまま夜行列車に乗ってブルックの拠点であるパリに向かうことにしました。そうしたら偶然その日がその舞台の最終日だったので、ブルックのカンパニーの俳優さんたちも同じ列車に乗っていたんです。パリ駅に着いて、その中の日本人俳優さんに話しかけ、それがきっかけとなり演劇を始めることになりました。それまで演劇なんて興味もなかったのですが、その時は絶望感や生活の厳しさもあり、すがるような気持ちだったのだと思います。
 それから5年ほどドイツで舞台づくりをしていました。そのあと日本に帰って来ましたが、日本の方が演劇をするには状況が厳しくて、製本機械会社で働きながら戯曲などを書き、5年ほど細々と演劇活動をしていました。
 2002年、33歳の時にPort B(ポルトビー)という創作ユニットを立ち上げ、それから数年は劇場で舞台作品をつくっていました。

―その後なぜ劇場ではなく都市を舞台にするようになったのですか。

 ドイツにいる時は舞台をつくることが楽しくて、舞台をどうつくるかが演劇だという発想になっていました。ところが日本に帰ってきて舞台すらなかなかつくることができない状況で、なぜ自分は演劇を始めたのか、少し距離をもって考えられるようになり、帰国から3年くらい経ったある時、自分の演劇の出発点は観客としての身体感覚や知覚だったということに気づいたのです。
 そのことを、Port Bを立ち上げた数年後に改めて思い出し、街が舞台で、1本の道を歩いた時に身体がどう感じ、知覚がどう変わるかというその体験が演劇になるのではないかと思い、都市に出ました。ですから、劇場から都市に出たというよりも、主役が舞台上の俳優から観客の身体・知覚になったということです。それが演劇の根本だと思ったのです。

―都市を舞台にした最初の作品はどのようなものだったのでしょうか。

 僕らの稽古場が西巣鴨にあり、近くの巣鴨地蔵通り商店街を舞台に、歩く身振りだけで作品をつくろうと考えました。その頃は時間もありましたから、バイノーラルマイクという人間の耳に近い条件で録れるマイクをつけて、地蔵通り商店街をとにかく毎日歩いて録音し、その音源を聞き直すことを繰り返しました。そうすると、通り沿いの魚屋や八百屋の掛け声など環境音が録音されていて、自分の身体感覚や知覚を、その録音元を聞いてもらうだけで他の人に再体験してもらえる。音を使えば地図がなくても人をナビゲーションできるということに気が付きました。
 そういうコンセプトでつくったのがツアー・パフォーマンス「一方通行路~サルタヒコへの旅~」(2006年)という作品で、半年くらいかけて約500 回録音した環境音を編集し、観客が「音の地図」を聞きながら歩くというツアー形式のものでした。もちろんその途中で指示を入れたり、メリハリをつけるための装置も設けながら、普段見慣れているものが、どのようにすれば違った景色になるのかということに挑戦しました。
 ブルックの舞台を見て始まった演劇が、ようやくそこにきてツアー・パフォーマンスという自分なりのスタイルで接続されたような気がしました。それからは舞台もつくりながら、同時に外にも出るようになりました。

―主役が観客の身体というのは面白い発想ですね

 ギリシャ時代が西洋演劇の始まりと言われていて、演劇はギリシャ語でテアトロン、英語だとシアターですが、そもそも「テアトロン」は客席のことを指すのです。ですから、自分が個人的にやってきたことも演劇史の中で見るとそれほど的外れではなかったと思っています。
 ギリシャ時代の舞台作家たちは、将軍や今でいう官僚のようなポジションにある人で、戯曲はほぼギリシャ神話を題材にしていました。ギリシャ神話のある部分を解釈し直して舞台に乗せ、集まった市民はそれを見ながら街のことや国家のことを考えました。
 数年前にアテネに行った時に、アクロポリスのディオニソス劇場を見に行きました。劇場は丘にあり、斜面が客席になっていて、観客の視線の先には小さな舞台、その後ろに街が見えます。観客は舞台を見ながら街も見ていたことが非常によくわかりました。テアトロンが客席を指していたように、劇場は観客が舞台を見ながら考える場とされていたのです。
 そして当時そこに集められたのは市民全員ではなく、アテネ生まれの成人男性のみ、女性や未成年者や外国人や奴隷は排除されていました。アテネの古代劇場というと少し神格化されていて、デモクラシーの発祥の場などと思われていますが、実は人を動員することと排除することが同時に行われていた場所だったのです。
 劇場が暴力性と排除する機能を持っていたという点は、見逃してはいけないポイントだと思います。

―演劇における暴力性とは具体的にどのようなことでしょうか。

 「一方通行路」では、実は観客は非常に暴力的な体験をしていることになるんです。というのは、僕が体験したことやデザインしたことをそのまま反復させるわけですから。そこには、デザイン通りに動いてくれているという快楽があるし、動かされている方もデザイン通りに動くことに快楽をもつと僕は思っています。
 ところがある時ウィーンでプレスカンファレンスをした際に、客席から「自分の身体感覚によって人の身体感覚をコントロールすることをどう考えているのか。その倫理や暴力性をどう考えているのか」と質問されました。その時に僕は答えられなかったのですが、それはとても重要な質問だなと思い、その後そのことをどうしても意識するようになりました。
 振り付けすることへの躊躇もありますが、振り付けのようなフレームがないと実はただの生活になってしまって、普段の生活が異物として見えてきません。それは良くないので、振り付けや動線をデザインすることは暴力的なんですが、必要なことだと考えています。
 ただ最近は以前よりデザインの仕方が強引ではなくなってきたり、デザインが100%機能しなくても構わないし、むしろそっちのほうが面白いと思うようになってきています。フレームや環境が決まっていれば、その環境がそこに入った人を振り付けてくれるからです。建築でいう広場のデザインに近いのかもしれません。


アテネのディオニソス劇場

―都市を舞台とした作品など、独自の展開をされていますが、ご自身の活動は演劇と捉えていますか。

 外側から見たら僕が演劇をやっていると思う人はほとんどいないでしょう。実際、美術の仕事が多いですし、ここ10年で演劇の仕事がきたのは国内はほとんどなくて、2つくらいです。ですからアート活動をしていると思われているのでしょうが、自分としては演劇をやっているという意識がとても強いです。
 最初は作品を演劇として見てもらえないことを残念に感じていましたが、今はどう見られようが、どう体験されようが構わないと思っています。ですが、自分としてはつくる上でのベースは演劇だというのは常々意識していますし、それがないと遠くに行けないような、深く潜れないような気がしています。

―演劇が行われる空間をつくるのは建築家です。建築家に何を期待しますか

 劇場の歴史についてお話しします。僕は近代演劇を完成させたのは音楽家のリヒャルト・ワーグナーだと思っています。それまで劇場はギリシャ時代のなごりがあり、舞台の奥に街を模した模型がつくられ、観客はそれを見ながら舞台を鑑賞していました。それをワーグナーは、自身の作品を上映するために設計したバイロイト祝祭劇場(1897年)で、舞台の奥を深くして、どの席からも同じ景色が見えるようにし、都市を完全に分断させました。そしてオーケストラピットを観客の視界に入らないよう地下に隠し、上演中は客席の電気を消すようにした。つまり舞台にひたすら没入させるようにしました。これが近代演劇の完成で、この図式をうまく使ったのがナチスです。アドルフ・ヒトラーやヨーゼフ・ゲッベルス、アルベルト・シュペーアがワーグナーに傾倒したのは、ファシズムが持つ論理とワーグナーが完成させた論理が非常に相性がよかったから。極論を言うと、近代演劇が独裁者を構造的に支えてしまった歴史があると思います。
 この近代演劇のスタイルが現代の劇場に適用されていて、今でも劇場では携帯電話の電源を切り、暗くなったら舞台に集中してくださいというある種のルールがありますし、イベントや強度のある祝祭は一極集中がベースになっています。
 ですから、この歴史に対して、これから劇場やイベント会場、あるいは都市の中の祝祭のデザインがどうあるべきかはとても重要なことだと思います。建築物は時間をかけて人の身体感覚を変容させることができます。これまでとは違う、われわれが思う存分楽しめる新しい演劇スタイルがあった時に、どういう建築が必要なのか。どういう建築をつくれば、人々のファシズム的な欲求が撹乱されたり、解体されたりするのか。プロジェクトの演出側と建築家がタッグを組み、新しい知覚のモデルになる劇場や広場をデザインしていただきたいと思います。


「東京ヘテロトピア」より (撮影:蓮沼昌宏)

―新型コロナウイルスの蔓延がご自身の活動にも大きく影響しているのではないでしょうか。

 建築倉庫ミュージアムで、2月から「模型都市東京」という企画展を開催していますが、休館している状況です。海外でも展覧会などに出展を予定していましたが、延期になったり、この先予定しているものも開催されるかわかりません。
 このような状況だからこそ、今取り組みたいと思っていることが3つあります。ひとつは、演劇的な思考や発想が他の分野の人にも有効に生かしてもらえるように、きちんと文章にしたい。2つ目は、コロナの時代でもできる演劇のかたちを探したい。3つ目は、継続的な都市の機能として存在しうるようなものを、とくに東京で模索したい。
 その時にヒントになるのが、繰り返しになりますが、ギリシャの劇場では舞台を見ながら街のことを考えていたということ。ただそこでネックになるのが、コロナで問題になる、人が集まるということだと思います。もちろん時代とともに集まり方が変容することを受け入れ、そのための新しい形式を発明していかなくてはいけません。街のことを考えるメディウムが舞台であると定義するならば、今の時代、劇場に集まらなくても、アプリやWebサイトでもいいのかもしれません。しかし、人が物理的に集まることの意味は何か、そこには古代から何千年も築いてきたものがありますから、それはやはり大事で、「濃厚接触」の価値を捨てたくはないという気持ちもあります。

―それは人が集まる場を設計する建築家に突きつけられた課題でもあります。

 僕の作品に、「東京ヘテロトピア」など、都市の中で参加者を移動させることがテーマのプロジェクトがありますが、それはコロナによる影響を大きく受けることになります。移動できない時にどうすればいいのかは、実は演劇を考える上でとても大事なテーマだと思っています。それはもしかしたら建築にも通じることかもしれません。
 民俗学者の折口信夫曰く、演劇の起源は田楽で、田楽は宗教行事の田遊びを真似たもの。田遊びに行けない人たちが、田楽のパフォーマンスをする人たちを自分の町に呼ぶようになったといいます。富士山に行けない人が近所の神社に富士山を模したものをつくって疑似体験したというのもそうですが、日本の芸能や演劇は、ほとんどオリジナルの場所でサイトスペシフィックなものを体験できない人のためにつくられている。基本的にそういう時に生まれているのです。ですから、新型コロナウイルスが蔓延して移動できない今こそ、何か考えなくてはいけないと思っています。

―これからの演劇・建築のことも含めて大変貴重なお話をいただき、ありがとうございました。

 

インタビュー: 2020年4月2日 Skypeで実施
聞き手:会田友朗・関本竜太(『Bulletin』編集WG)

■高山 明(たかやま あきら)プロフィール

演出家
1969年さいたま市生まれ。演出家・アーティスト。演劇ユニットPortB(ポルト・ビー)主宰。既存の演劇の枠組を超え、現実の都市に介入するプロジェクトを世界各地で展開している。近年では、美術、文学、観光、建築、教育といった異分野とのコラボレーションに活動の領域を拡げ、演劇的発想を観光や都市プロジェクト、教育事業やメディア開発などに応用する取り組みを行っている。

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