JIA Bulletin 2025年冬号/覗いてみました他人の流儀
髙橋正明 氏に聞く
「よせもの」を広く伝える髙橋正明
今回お話をうかがったのはジュエリーデザイナーの髙橋正明さん。大学で建築を学び、フィンランドの巨匠建築家ユハ・レイヴィスカの事務所で働いた経験をもつ髙橋さん。現在はアクセサリー工房を経営しながら、自身のジュエリーブランド「MASAAKi TAKAHASHi」を扱うショップの運営や、伝統技術「よせもの」を伝えるスクールも運営されています。
中学生のときに夢見ていたのはファッションデザイナーでした。当時流行っていたDCブランドに憧れて、高校には行かずにニューヨークのデザイン学校に行きたかったのですが、父親に反対されました。高校を卒業する頃には海外に留学することの難しさも知って、文化服装学院に行きたいと思うようになりましたが、今度は大学に行くように言われて……。仲の良かった友人が建築学科に行くと言うので、何もわからないまま日本大学の建築学科に入り、だんだん建築にのめり込んでいきました。
日大には当時、「フジタ・都市講座」という海外から講師を招く講座がありました。僕が大学院1年の時には、マニュエル・タルディッツとトム・ヘネガン、ユハ・レイヴィスカの3人が招かれていました。僕はそれには申し込まなかったのですが、先生に「お前英語できたよな。成田空港までユハ・レイヴィスカを迎えに行ってくれ」と言われて。ユハ・レイヴィスカのことは全く知らなかったのですが、高校時代にホームステイを経験したりして英語が少し話せたので、空港からホテルまでアテンドする仕事を任されました。
成田エクスプレスの中でユハといろいろ話していたら、ワークショップに加わるように言われて、最後のパーティーのときには、フィンランド関係の方に「髙橋くん、ユハ・レイヴィスカが君を事務所に受け入れてもいいと言ってるよ」と言われて驚きました。行きたいのだったら1週間以内に行くべきだとも言われて、すぐにポートフォリオをまとめてユハの事務所に行きました。それで、大学院を卒業してからフィンランドのユハの事務所で働くことになったのです。
ユハの事務所では、先輩スタッフのアシスタントとして図面を描いたりしていました。事務所内では英語でコミュニケーションを取っていたのですが、現場に行くと職人さんたちはフィンランド語で話すのでコミュニケーションが取れないことがもどかしく、2年弱で日本に戻ることを決断しました。
日本に戻ってからはある設計事務所に就職したのですが、フィンランドでの仕事のリズムと全然違い、終電も当たり前で順応できずに2、3ヵ月で辞めて独立しました。それからは、両親が「よせもの」という手法でアクセサリーをつくる職人として工房を開いていたので、昼間はそこを手伝い、夜は住宅設計をするという生活になりました。
もともとうちの工房ではメジャーブランドなどの製品の製造を請け負う仕事がメインだったのですが、あるときドレスメーカーの方に「よせもの職人」は高齢化で、若い職人は髙橋さんくらいだと言われたんです。同様に「よせもの」を知るデザイナーも高齢化でブランドからいなくなってしまったら、仕事がこなくなってしまう……。そして「よせもの」の良さをきちんと広く伝えられていないことに気がつきました。それで建築設計はいったんお休みして、「よせもの」を伝えることを考え始めました。
今ほとんどのアクセサリーは、1つ原型をつくって、そこに金属を流して大量に製造するキャスト(鋳造)という作り方が一般的です。一方、「よせもの」は金属のパーツを寄せ集めて、そのパーツの接点をろう付けして作ります。そこにクリスタルを爪留めで付けるので、軽くて、パーツの透け感もあってキャストなどに比べると一段ときれいにキラキラ輝くのが特徴です。アクセサリーを作る技法はさまざまありますが、「よせもの」は結婚式のティアラやネックレス、舞台衣装など点数の少ないものに適した昔ながらの方法です。
キャストの場合、粘土などで原型の形を自由に作ることができます。一方、「よせもの」は、クリスタルガラスは形やサイズが決まっていますから、例えば丸みを帯びたプードルを作るには、レゴブロックやドット絵のように上手に抽象化してデザインしなくてはなりません。
それから作る技術にもハードルがあります。「よせもの」は全てろう付けという溶接で作ります。ガス溶接の1つなのですが、その技術がすごく難しくて、接点のところだけうまく銀を溶かしてつなぎます。その技術習得に時間を要し、僕も1、2年かかりました。
それから、一子相伝という部分も受け継がれにくい要因だと思います。僕はもっと技術を学びたかったので、他の「よせもの」職人がどのように作っているか見てみたかったのですが、父に「技術はその人の資産だからそれを盗んではいけない」と言われました。横のつながりがないのです。だから跡継ぎがいなかったら消滅してしまうということも分かりました。
まず認知普及のために、2012年に自分がデザイナーを務めるブランド「MASAAKi TAKAHASHi」を立ち上げ、2014年にこのブランドの商品を扱うお店をオープンしました。今もメジャーブランドからの受注製造をしながら、自身のブランドを展開しています。そして、「よせもの」の継承と発展を目指して2024年にスタジオを作り、教室もスタートさせました。
「よせもの」の普及を職人自身も邪魔をしていると思っています。職人はデザイナーの描いた絵を比較的自由に自分が作りやすいように変えてしまうのです。僕はそれがすごく嫌で、建築だったら考えられないですよね。僕はデザイン画をなるべく忠実に再現したり、絵の通りだとうまくいかない部分はデザイナーにアドバイスをするようにしています。舞台衣装などのコスチュームジュエリーはファッションビジネスなので、安くなるならデザイン画とはちがう作り方を選ぶのもわかりますが、本当は良い作り方なのに、「よせもの」を自分たちで悪いイメージにしてしまってきたのも事実です。それから、デザイナーも「よせもの」のことを十分理解していないから無理な注文をしてくることもあります。デザイナーにも作り方を知ってもらわなくてはいけないと思っています。
クラスがいくつかあり、ホビークラスには「よせもの」を趣味で楽しみたい方が通っています。また、すでにアクセサリー作家として活動する方が、新たな技術として「よせもの」を学びに来ている方もいます。本格的に学びたい方は、定期的に通うアルチザンクラスで作家や老後の趣味のために技術を磨く方も想像以上に多くいます。
それから「よせもの」を広めるためには、すべての人が作り手になる必要はないと思っています。
スクールのディプロマクラスには、デザインクラスとブランディングクラスがあり、デザインクラスで「よせもの」を知った人は、就職したファッションブランド内の企画でほとんど知られていない「よせもの」を提案しデザインを実現できる可能性があります。
また、ブランディングクラスでは座学でブランドを持つための所作なども教えています。将来的には「よせもの」デザイナーとしてブランドを立ち上げていただき、デザインしたものを私の工房で製作サポートできる体制などもイメージしています。すでにデザイナーや作家として活躍している人にとっても、自分の引き出しに「よせもの」が入れば表現力が広がるのではないでしょうか。このように「認知・教育・普及・発展」の仕組みを作ることが重要なことだと考えています。
2018年からは、巡り巡って文化服装学院のジュエリーデザイン科で講師として指導する機会をいただきました。入学したかった学校ですから、声を掛けていただいた時は嬉しかったです。
世界中、伝統技術の継承は難しいとよく聞きますが、職人だから作ることしかできないと言うのではなく、職人も自分の技術が途絶えないように何かしら行動を起こさないと技術の継承は難しいと思っています。これからも「よせもの」の文化をつくっていきたいです。
インタビュー:2024年9月13日 「ヨセモSTUDIO」にて
聞き手:関本竜太・渡辺猛・望月厚司・伊藤綾香(『Bulletin』編集WG)
髙橋正明(たかはし まさあき)プロフィール
コスチュームジュエリー作家
1972年東京都生まれ。1997年日本大学大学院修士課程修了後、フィンランドの設計事務所Juha Leiviska, Vilhelm Helander Arkkitehdit SAFA勤務。1999年帰国後、デザイン事務所atelierM+設立と同時に家業のアクセサリー製造業を手伝う。2005年デザイン事務所と家業を合併しatelier8一級建築士事務所設立。2012年コスチュームジュエリーブランドMASAAKi TAKAHASHi設立。2014年MASAAKi TAKAHASHi atelier shop開店。2018年~文化服装学院非常勤講師。2024年~「よせものデザインスクール|ヨセモSTUDIO」開校。