JIA Bulletin 2025年春号/覗いてみました他人の流儀

山田能資たかすけ氏に聞く
伊達冠石を通してその内面を視つめる山田能資

今回は、宮城県丸森町の大蔵山で、石材の生産・加工・施工を行う大蔵山スタジオの5代目山田能資さんにお話をうかがいました。大蔵山で採れる伊達冠石は、彫刻家のイサム・ノグチが好んで使用したことで知られ、今では建築やアートでも広く使われています。石材事業から発展した新たな取り組みについてうかがいました。

まず大蔵山スタジオについて教えてください。

 大蔵山スタジオ(旧山田石材計画)は、大正時代に初代・山田長蔵が宮城県の大蔵山で伊達冠石だてかんむりいしの採掘を始め、そこから採石だけでなく加工や施工、販売など、事業を変化させながら5代続く石を専門に扱う会社です。 
 大蔵山は2000万年前に火山から噴き出したマグマが冷えて固まって形成されました。その山が海底に沈んで地殻変動を経て生まれたのが玄武岩溶岩・火成岩の伊達冠石です。私にとってこの石は、海とマグマという、まさに地球の活動が凝縮された石なのです。

どのような子ども時代を過ごしたのですか。

 祖父の代は、昭和の勢いもあって採石場をどんどん広げていました。父はそのスピード感や、山を壊していくことに疑問を感じて、採石を続けながらも、自然と向き合っていくにはどうすればよいか悩んでいました。それに共感して手助けしてくれたのが、石彫家や建築家の方々で、小学生の頃はそういった作家さんがよく大蔵山に来て、大蔵山を整備して再生させるプロジェクトを進めていました。自宅は山から少し離れた住宅地にあり、田舎なので気の利いた宿泊施設がないため、作家さんたちはよく我が家に泊まっていました。
 1989年には大蔵山スケープキャンプというプロジェクトを発足し、大蔵山に巨石を使った舞台など、地元の石や木、土を用いた施設を造成していきました。現在採石場の跡地にさまざまな文化施設が点在していますが、この風景をつくり始めたのが父で、子どもの頃は父と協働するクリエイティブな方々が周りにいる豊かな時代を過ごしました。

山田さんご自身はどのようなことに興味があったのでしょう。

 高校では陸上部に入っていたのですが、きちんと取り組まずに置いていかれる状況で、そんな中、1年生の終わり頃に陸上部の顧問の先生に廊下ですれ違いざまに「お前、絵をやった方がいいぞ」と急に言われたのです。陸上部を退部できるのでラッキーと思いましたが、よく考えると先生に絵を見せた記憶はなくて……、まるでお告げのようでした。幼い頃から絵を描くのは好きでしたが、入部するとすぐにハマってしまいました。
 大学でも美術部で絵を描き続け、大学3年時に個展を開くと、ある方が「もし山田くんが絵をやりたいんだったらイギリスかアメリカに行った方がいい」とおっしゃったのです。その助言もあり、大学卒業後はロンドンの芸術大学セントラル・セント・マーチンズに留学してグラフィックを学びました。
 セント・マーチンズでは、理論的に形を構築していくことを徹底的に学びました。日本人はどうしてもフォルムから入りがちですが、その前に何をどう捉え発展させたのかが評価されます。経営者になった今、その重要さを痛感しています。

帰国後に家業を継がれたのですか。

 はい。父の存在は大きかったですし、4代続いていますから継ぐ意識はありました。始めの1年間は東京にある石材店で丁稚奉公をさせていただきました。
 その後、当時、山田石材計画(旧社名)は2つの採石場を経営していました。ひとつは大蔵山で、もうひとつは福島県にある芝山という白御影石が採れる場所でした。私はまず芝山で石の採り方を一から勉強しました。東日本大震災後は大蔵山の方が被害が大きかったので、宮城に戻り、山田石販という小売りの会社でお墓を直す仕事などをしながら、営業を7年間ほどやりました。そして2017年8月、37歳で会社を引き継ぎ、そのタイミングで社名を大蔵山スタジオに変えました。

代表になり、事業内容はどのように変化していったのでしょう。

 これまで墓石の製作や施工が主な仕事でしたが、そこでは自分の能力を生かしきれないし、また、その事業自体は他の会社でもできることだと思ったので、そういった小売事業は少しずつ縮小し始めました。それから福島の芝山も売却しました。
 そして伊達冠石を建築やアートの専門家に提案して、協業したり、魅力を発信することに力を入れ始めました。子どもの頃や学生時代にアーティストとの交流は身近にありましたし、美術や建築と何かで関わりたいという思いが自然に高まりました。作家と協業しながら、当社が窓口となって、作家の作品を提供するような事業モデルも描いていたので、それも徐々に実現していきました。もともとやりたかったことにだんだんフィットしてきていて、これからも大蔵山でしかできないことにフォーカスしていきたいと思っています。
 もともとあった事業をどんどん縮小していくと、当然売り上げが下がってきますし、しばらくは非常に大変でした。芽が出始めたのが3、4年ぐらい前でしょうか。だんだん設計事務所さんなどから、伊達冠石を使ってみたいとお話をいただくようになりました。今では採掘から、オーダーにあった石を選定し、設計図を描いて加工、施工まで自社で行っています。

伊達冠石を建築で使いたい場合はご相談できるのですね。

 はい。デザインや加工の提案は、私が自ら絵を描いています。学生時代の経験が生きていますし、今でもアイデアを出す作業は楽しいです。
 少し話は変わりますが、教会建築もそうですが、最近、祈りの空間がすごく重要だと改めて認識しています。人間はこれまでそういう潜在的な感覚と向き合ってきたはずなんです。でも今の建築の中にそういうことができる空間が少ない気がしています。
 石は素材でもありますが、恒久的なものですから、石を使うことで、そういった人間がもともと持っている祈りという潜在的な感覚にも同時に向き合えるお手伝いができればいいなと感じています。大蔵山スタジオはもともと墓石をつくっていますし、それも再定義して提案していきたいです。人々が石とどう向き合ってきたのかを同時に伝えられたらいいですね。

選定された巨石を配した幻想的な空間

選定された巨石を配した幻想的な空間

最近の取り組みについてもお聞かせください。

 伊達冠石は、建築やアートの他にも、ドアノブや洗面台などのプロダクトも展開しています。
 最近は伊達冠石だけにとらわれない動きもしていきたいと思っていて、大蔵山で採れる土を左官職人さんに使ってもらったりもしています。自社の壁に塗ったところ、問い合わせが来るようになり、レストランなど商業空間の壁仕上げ材として提案できるのではないかと考えています。
 それから、今年工場を拡張して、5月ぐらいにオープンする予定なのですが、ただの工場ではなくて、アトリエのようなものづくりの空気感を感じられる場所にしたいと思っています。地元の建築家の方に協力してもらいながらつくっているところです。その他にも磁器のスタジオや、香りのスタジオ、地域で採れるものを提供する食堂もつくりたいですね。
 私はやはりクリエーションが好きなんです。そのプロセスも完成したときの空気感もすごく好きで、非常に刺激的です。その刺激的な環境を僕は山でつくっていきたい。大蔵山という場所で、この土地の可能性を引き出して、それをみんなで共有して発信するような会社づくりをしていきたいと思っています。

クリエーションがおもてなしにつながっていますね。

 自分自身が楽しみたいのですよね。そうすると来てくださる方も楽しめると思います。そのサイクルが人生を豊かにするのではないでしょうか。大蔵山周辺は今本当に美しくなっています。ぜひ山に来ていろいろ感じていただきたいです。

貴重なお話をありがとうございました。
山田氏がデザイン、大蔵山スタジオにて制作されたローテーブル「KON PAC」

山田氏がデザイン、大蔵山スタジオにて制作されたローテーブル「KON PAC」

インタビュー:2024年12月13日 大蔵山スタジオ ザ・ギャラリー東京にて
聞き手:小山光・佐久間達也・望月厚司(『Bulletin』編集WG)

山田能資(やまだ たかすけ)プロフィール

大蔵山スタジオ
1980年 東京都生まれ 玉川大学文学部英米文学科、ロンドン芸術大学 セントラル・セント・マーチンズ校 卒業。2017年より大蔵山スタジオ株式会社 代表取締役社長。 2024年6月 THE GALLERY TOKYO 開業。
INSTAGRAM : @okurayamastudio.design