JIA Bulletin 2025年夏号/覗いてみました他人の流儀
須藤玲子 氏に聞く
伝えたいことを布で表現する須藤玲子

今回お話をうかがったのは、テキスタイルデザイナーの須藤玲子さん。テキスタイルデザインスタジオ「NUNO」を主宰し、空間インスタレーションや建築家との協働作品など、さまざまなテキスタイルを数多く手掛けています。日本各地の染織産地や職人と交流を持ちながら、独自の発想で布づくりを続ける須藤さんに、「NUNO」の立ち上げ時から、現在の活動までをうかがいました。
高校生の頃は着物の柄を描く友禅作家になりたくて、日本画を学んでいました。武蔵野美術大学の日本画学科を志望していましたが、思い描いたようにはいかず、武蔵野美術大学の短期大学に入り、工芸デザイン科に進みました。工芸デザイン科ではさまざまな素材を扱うのですが、それがとても面白くて。だんだん織物に興味をもつようになっていきました。ただ夢は捨てきれなくて、日本画のトレーニングも続けていました。
織りの技術を習得し、しばらくは手織り作家として建築家の友人が手掛けた商業空間に飾るタペストリーやファブリックパネルなどをつくっていましたが、年に1点程度の織物だけでは食べられなくて。たまたま日本画を習っていて絵が描けたので、大手の繊維メーカー何社かと嘱託契約をして、シーツや毛布といった寝具のテキスタイルの図案などを描く仕事もしていました。
1983年、29歳のときにテキスタイルプランナーの新井淳一さんの展覧会を見て、新井さんと出会ったことが大きいです。新井さんは、当時山本寛斎さんや森英恵さんの生地をデザインされていて、当然お名前や作品は知っていました。展覧会会場は小さなギャラリーでしたが、天井から布がたくさん掛かっていてとにかく圧倒され、ちょうどご本人も在廊されていました。
新井さんのテキスタイルは、ファイナルプロダクトとしていろいろなデザイナーの作品になって存在していましたが、手織りをしていた自分の布よりも手の跡が感じられるのです。服の状態で見るテキスタイルの魅力と、一枚の布としての魅力は全く異なり、それを強く感じた素晴らしい出会いでした。
そしてそのとき、私は自分が描いた図案を持っていて、新井さんに何をしているのか聞かれて話す中で、突然「テキスタイルの店を作るので一緒にやらないか」とNUNOの立ち上げに誘われたのです。そのときはあまり本気にはしませんでしたが、その後ご縁が重なり、思い切って契約していた仕事をほぼ辞め、株式会社布の立ち上げに参加することにしました。そして1984年の4月、ここ六本木AXISで、新井さんと新井さんの友人と私の3人でNUNOをオープンしました。店番や販売の経験などありませんでしたから、正直とても不安でしたね。
設立当時から変わらぬコンセプトは「つくる人から使う人へ」。布をつくっている人の思いを使う人に伝えるということを大切にしています。最初はスカーフや服など加工したものは販売せずに、テキスタイルだけ、それも生成りと藍と墨の3色だけを扱っていました。扱う布は、新井さん自身がデザインされた布と、久留米藍や博多絞りなど日本国内の工芸家の作品や、インドのシルク、ボリビアのウールなど、民芸品のようなものでした。新井さんはもともと民藝が大好きでコレクションしていましたから、私たちは毎週新井さんのいる群馬県桐生市に通って、倉庫から布を選び、精錬して、染め、刺繍などの後加工を指示して、それを次の週に店に並べる。そんな日々でした。
当時、一般の消費者が買えるテキスタイルは、輸入ものかプリントがほとんどで、ファッションデザイナーが買うような布を買うことができる店はありませんでした。だからよく驚かれましたね。80年代ってなんでも珍しかったんです。世の中はブランド物がもてはやされ、自分で服をつくる時代から既製服の素晴らしいものがたくさん生まれた時代。布屋がどんどんなくなっていっているときに、私たちはあえて布を売り始めたのです。
1987年には事情があり新井さんがNUNOの経営から抜けるのですが、私はその後も新井さんの夢を追いかけている気持ちでずっと走ってきました。
たまたま私が自分で着るためにつくったものを見たお客様にそれと同じものが欲しいと言われ、だんだん衣服も扱うようになりました。新井さんと一緒にデザインもしていましたが、自分の名前でテキスタイルを出し始めたのは2000年からです。
きっかけは、1998年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で開かれた展覧会「構造と表層:現代日本のテキスタイル」(Structure and Surface: Contemporary Japanese Textiles)なんです。1980年代後半に、この展覧会のキュレーターのマチルダ・マクエイドとカーラ・マッカーシーがNUNOを訪ねてきました。MoMAは1949年にバウハウスのテキスタイルの展覧会を開いていて、その50年後の1990年代に再びテキスタイルの展覧会を計画していました。キュレーターの2人は日本のテキスタイルを紹介したいと考えていて、それで一緒に日本中の染織産地を巡ってリサーチしたのです。展覧会に向けて10年間彼女たちと一緒に日本中を歩いて、それまで知らなかった技術にたくさん出会い、とても勉強になりましたし宝探しのようでした。
今の布づくりは産地の技術の継承も強く意識していますが、当時はまだそういう意識はなくて、とにかく彼女たちの熱い思いに応えたい、その一心でした。そのときの経験が今のNUNOや私自身のベースになっています。
基本的に使い道は考えずにデザインしています。ただ、具体的に使用用途の要望があった場合は、それに合わせて考えます。たとえば、1992年に私がデザインしたテキスタイルに、ウールと綿を摩擦加工でキラキラさせたものがあります。これを椅子張りに使いたいと言われましたが、そのままの素材では耐久性がないので、ポリエステル100%に変えたテキスタイルを新たにつくりました。
NUNOには現在9人デザイナーがいますが、自分たちが伝えたいことを具体化していくことを大切にしています。それを使ってくださる方がいろいろな発想で、椅子に使ったり、絨毯にしたりする。そのときにはじめて次の展開の布づくりに入っていければいいと思っています。
今は、環境についての取り組みも重要で、布づくりのベースにはサステナビリティがあります。これはものをつくる私たちひとりひとりが考えていかなくてはいけないテーマです。再生というより、循環させていく考え方がとても大事になると思っています。

《日本橋こいのぼりなう!》展示風景 2025年
(写真:Nacasa & Partners)
伊東豊雄さんに会ったのは1984年です。ちょうど自邸「シルバーハット」を設計されているときで、子ども部屋に天井から布を吊ってテントのようにカーテンを取り付けました。それからストーブがあって、子どもが危なくないように柔らかいもので覆いたいと言われ、消防服の生地で覆いをつくりました。それをすごく気に入ってくださり、それから「NOMAD(ノマド)」(1986)や「せんだいメディアテーク」(2000)など、伊東さんの仕事はずいぶん関わらせていただきましたし、建築家との仕事も増えていきました。
建築ではテキスタイルと空間のつながりを大切にしています。求められていることを理解するために、設計者とのコミュニケーションは欠かせません。それから、建築空間はクリアしなくてはならない基準がたくさんありますから、試作も多くなり難しい面もありますが、やりがいも感じています。伊東さんと話していていつも共感するのは、「建築はひとりでは絶対につくれない」ということ。規模は全然違いますが、私の仕事も1人ではできません。
テキスタイルデザイナーというと絵を描いている人だと思われがちですが、布をつくる技術や工場の仕組みなどまで理解しないとつくることができないのです。そういった場で学ぶことも楽しんでいます。
私はクライアントからの正式なオファー前でも、それをつくることの意義を感じたら、サンプルづくりなどを始めてしまうことがあります(笑)。これからも自分の探究心の赴くまま、ものづくりを続けていきたいです。
インタビュー:2025年4月15日 六本木AXISの「NUNO」にて
聞き手:関本竜太・渡辺 猛(『Bulletin』編集WG)
須藤玲子(すどう れいこ)プロフィール
テキスタイルデザイナー
茨城県石岡市生まれ。株式会社 布 代表、東京造形大学名誉教授。
伝統的な染織技術と先端技術を融合したテキスタイルを創作。アドバイザリーボードメンバーを務める良品計画、山形県鶴岡織物工業協同組合などでテキスタイルデザインアドバイスを手掛ける。作品はニューヨーク近代美術館など国内外の美術館に永久保存されている。