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建築家とまちづくり;「住民発」を念頭に置いた団地建て替え
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建築家とまちづくりの関係を意識し始めてから四半世紀を超える。もとはといえば私の子供の頃の住体験による。私は少年期・青年期を多摩平団地(東京日野市)で過ごした。そこは日本住宅公団初期の団地で、高蔵寺ニュータウン(愛知県春日井市)の設計に携わるとともに現在も住民として関わりを持ち、最近「高蔵ニュータウン夫婦物語」(ミネルヴァ書房)を出版した当時の若き津幡修一氏が中心になって計画されたものである。
低層テラスハウスを主体とし、街区形成のためにその頃としては新しい試みをちりばめてできあがったそれは40年の歳月を経て鬱蒼とした緑に覆われ、その間に醸成されたコミュニティーとともに住民が大切にしている団地でもある。
私の当時の日常はそこにあり、多摩平団地は大学の卒業論文・卒業設計の題材となった。まだタウンハウスという言葉もなく、団地族と言われるようにコミュニティーの形成など団地に対して期待や認知が薄かったときに、でも情に厚い近隣関係が事実成立しており、その大きな要因にこの団地が持つ特質にあることを言いたくて、仮に建て替えがあるとするならばそれを継承していく手法が望ましいというのが提起したテーマであった。
やがて結婚し団地をあとにしてからは、親が住んでいるということ以外に特別な関係は多摩平団地にはなかった。その後、建築設計活動をしていく中で、建築家の専門性や社会的役割について様々な思いが交錯し、かつてあこがれを抱いていた建築ジャーナリズムから次第に心は離れ、それとは違うところであえて建築家として生きようという気持ちが強くなっていた。そして「まち」(住民やその人たちの暮らし)が主要なテーマとなり、少しずつそれらに関わる機会を増やしているそんなときにこの部会の前身である都市デザイン分科会の発足があった。
ちょうどそれと前後して多摩平団地とそれをとりまく市民団体から、団地の建て替えを考えるシンポジウムにパネリストとして呼ばれる機会があり、それをきっかけに再び多摩平団地と関わるようになるのだが、卒論・卒計は時効だよという反面、まさか現実の問題に関わることができるとはといううれしい気持ちが重なり合い、住民や市民団体とともに勉強会を続けることになる。その成果は一つの冊子となり、住民からの提案へとつながる。そもそも勉強会は建て替えを前提としているものの、決して反対を目的としていた訳ではない。確かに当初は建て替え指定を受けないためにどのような戦略があるかという議論はあった。しかし住民は勉強会を重ねる中で住み続けていくために実をとるという判断をした。その間一方で私と市民団体は、非公式ではあるが住宅都市整備公団と意見交換を重ねた。公団は多くの制約や限りのある制度を駆使して様々な試みをしようとしている。建て替え指定も住民は静かに受け止めた。それどころか、きっとこのような「住民発」を念頭に置いた団地建て替えは世界でも類を見ないと住民は誇りにさえ思っている。
現在、私は建て替え計画について計画者として実体的に関わる機会を得ていない。しかし住民および市民団体から専門的な立場での意見を求められる度合いが減った訳ではない。このようにして、建築家としての社会的役割を果たすことと、ともすれば対立関係におちいりがちな事業主体と住民を合意形成にたどり着くまでの出発点に立たせた点で一定の貢献をしたという自負心はもっているつもりでいる。
私はこの多摩平団地のほか数カ所でまちづくりのお手伝いをしているが、悲しいことにこれらのすべてが、関連のセミナーで講師をする機会があったときに謝金をいただいた以外は全くの無報酬(どころか事実上は持ち出し)である。まちづくりに関わる多くの建築家たちの多くが同じような状況のようだ。これらの一つ一つについては紙面の都合で割愛するが、まちに関わってそこに生きる様々な人たちから学んだことを一言。
我々が仲間内で思っているほど建築家が社会的に認知されている訳ではない。しかし本来我々が果たすべき役割については山ほどニーズはある。ただそれを果たしていないだけである。
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