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建築と街が一体で語れる日
超高齢社会の都市環境
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私たちの気持ちの中に,自分たちが住むこの都市や街が快適で望ましいものになるには,あまりに困難であると思わさせてしまうものがあります。と言いつつも実は,私たちの街がいずれそう遠くない日に,豊かで魅力的な街に成長する可能性が十分あると,私自身は楽観視をしています。以下にその理由となる視点を紹介します。
3年ほど前,新建築誌で月評を担当したとき,統一テーマを「街を作る建築」としました。その建物が「それ自体の目的を越えて周囲とどうあろうとしているか」を,街の側から振りかえってみました。街との接点は快適か,楽しいか,何を提供し何を生み出しているか,街並み形成にどう寄与しているか等をその場で見る簡単なチェック法です。今や「都市」は修辞上,観念上での扱いとなり,この国の建築は語る言葉とは逆に,自閉症的傾向にあると日頃危惧を感じていましたが,実際もそうしたものは多かったと思います。そうした中で健闘していたのは,小さな建物や集合住宅,地方のあまり大きくない公共建築などです。生活空間として身近な存在だからでしょうか。そんなことからも,大きすぎて漠然とした「都市」でなく,人や生活が見える「街」に視点を置くことで,建築は孤立を脱して,広がりのある生活空間・環境と関係を結べるのではないかと考えています。
今時代は過去の社会に根ざした考え方が,ほぼ全てに渡り,行き詰まっていることを示しています。そのことは実は私たちが良い街を手に入れる上で望ましい状況になったと考えることができます。特に戦後ずっとこの国の形を特徴づけていた二つの基礎条件の変化が大きく影響すると思われます。土地本位経済体制が崩壊しつつあることと一元的制度(中央統制)による社会運営が揺らいでいることです。
一元的な制度といえば,街路や用途地域などの問題がすぐ思い当たりますが,他方世界の良い街はそれぞれ独自の方法を試す中で生まれています。それも思いのほか短い時間で変化は顕在化し,そんなに長くはかかっていません。シアトルは都心のバスを無料にすることで10年で中心部を活性化するのに成功し,長浜も同じ時間で人の絶えた街を人々の集まる観光都市として復活させています。いずれも独自の方法で競ったおかげです。また,都市計画などのマクロからの方法ばかりが望ましい街を作るのでなく,ハード,ソフト共むしろ個人や個別の事業など,ミクロからの方法が圧倒的に大きな力を発揮すると思われます。ロンドンはパリ的な都市計画はないに等しく,個別の土地経営で成り立っていますが,人間味のある良い街だと思います。ある意味で東京と同質です。窮極の寡占と細分化という土地所有上の本質的差がありますから,乱暴な言い方になりますが,一考して良いでしょう。パリとてその魅力はオスマンの作った計画美でなく,その足下に張り付いた人々の活動であることは,同様の様式を誇るベルリンの退屈さと比べれば良く理解できます。個別事業の試行と学習,競い合いは良い街を作り出す条件のようです。それでは個人や個別事業が街という全体に寄与し得るか,「公共性」を持ち得るかが問題となりますが,土地本位制に慣れた私たちが長らく忘れていることがあります。本来土地は利用する中で価値が発生し,それは周囲と一体で評価されるということです。周囲を考えた投資が正しく資産を向上させるとしたら,個別事業が公共性を備えることは,正当な経済行動となります。土地の値上がり益に寄りかかった経済では,極端な言い方をすれば建物は無価値に等しく,そうした環境下では街に投資する個別事業などあろうはずがありません。それが根底から変わり得ると思われます。先に挙げた二つの事項はこれからの街のあり方と多くの面で密接につながっています。
最後に指摘したいのは,私たちの文化が本来優れた都市経営の実績を持っているとの歴史認識です。このことについては最近優れた研究が次々に発表され,まさに目の覚める思いがします。自己の固有性を回復することは,私たちに明日へ行動することの自信と勇気を与えてくれます。「建築と街が一体に語れる」そうした日を目指したいと思います。
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