いま活躍している建築家の皆さんはどんな子供時代を過ごしていたのでしょう?皆さんに聞いてみました。
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芦原太郎あしはらたろう
水島サロン
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FUKUHARA GINZA
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- Q.生まれ育った地域や環境をご紹介ください。
- ぼくの家は庭のある平屋の小さな家でした。小学校のときに大工さんがやってきて、庭先にぼくの部屋を増築してくれました。そのあともリビングを大きくしたり、2階をつくったり、家族の生活にあわせてこの家は、最初の姿からは想像もできないほど変化してきました。まるでガンダムやレゴのおもちゃのように。
姉とぼくが大人になってからは、両親が二人での生活をのびのびと楽しんでいました。父は庭に作ったサウナや露天風呂に入ったり、母は屋根の上のテラスで野菜を作ったりしていました。 - Q.子供の頃好きだったことは何ですか?どんな子供でしたか?
- ぼくの家には、親せきの人たちが出入りし、常ににぎやかでした。なぜならぼくの家のとなりにはおじさん、おばさん、おばあさんの家があったからです。
父は建築の勉強をするために、ひとりで遠いアメリカへ留学してしまいました。家には家族3人だけでしたが、ぼくは4つの家を走り回まわって、大家族の中で暮らしていました。
となりの家との間には塀がなく、ぼくは庭伝いにいとこのところへ遊びに行ったり、おばあさんのところへ行ったりしていました。 - Q.子供の頃や学生の頃に好きだった場所や、印象に残っている建物、
空間はありますか? - 東京芸術大学の1年生のときに同級生2,3人と吉村順三先生の軽井沢の別荘を訪ねました。そのとき先生は「建築の基本は住宅にある。その住宅は外観やスタイルがよいということではなく、そこを生活の器とする家族にとって、いかに住みやすいかを追求することが大切だ」とおっしゃっていました。その言葉がとても印象に残っています。
そして大学4年のときに1年間休学をして南イタリア、スペイン、ギリシャの島々を旅しました。いまふり返っても、あのときの旅ほど“生きている街”との出会いを実感したことはなかったです。旅先で出会った地中海沿いの小さな集落は街全体が明るく生き生きとしていました。ここで私は、建築が都市や街と密接に関係するものであることを学んだのです。 - Q.建築家を知った時期、建築家を志したのはいつ頃でしょうか?
またどのようなきっかけですか? - 父が建築家(芦原義信)ではありましたが、建築家の道に進むように言われたことは一度もありません。小学校の高学年の頃に現場に連れて行ってくれたことがありました。ふだんなら子供は入れない工事現場に入れてもらい、父があれこれと指示する姿を見てかっこいいなと思いました。ヘルメットをかぶせられて、ちょっと得意になって広大な現場を一日歩いて回った。その日のことをいまでも覚えています。それが東京オリンピックの会場に使われた駒沢公園体育館でした。
そして16歳のとき、父が本物の製図道具一式をプレゼントしてくれたのです。うれしかったですね。いまから思えばあれは父の作戦だったかもしれません。 - Q.子供たちへのメッセージ
- 自分で色々工夫して何かを作ることはとても楽しいことです。
自分の家や街までも創れると思ったらすごい事ではないでしょうか。
もちろん自分ひとりでは無理ですが、建築を勉強して建築家になれば様々な人と一緒に考えた事を実現する事ができますよ。
そしてたえず自身を磨きましょう。外国では建築家になろうという若者は、推薦状、作品、経歴書の3つをいつも持っていて、憧れの建築家のもとで働くチャンスや様々な出会いを求めます。
この心構えは日本でも必要です。いかに自分をプレゼンテーションできるかは建築設計の世界では大切なこと。もちろんその後ろには、日頃の絶え間ない努力が必要なことは言うまでもありません。